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慰霊帳が呼んだ奇跡:ワスケ・ヒロタの多民族家族、慰霊帳の元に集う

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慰霊帳の元に集うワスケ・ヒロタの親族。

2023年4月27日、JANM(Japanese American National Museum)のアラタニホールは、喜びと感動で満ち溢れていた。一世であるワスケ・ヒロタの生誕150周年を祝うべく、彼の親族が集ったのだ。大人から子どもまで、近場はアズサ(カリフォルニア州ロサンゼルス郊外)から、遠方は大阪から、ヒスパニック、ネイティブアメリカン、日本人の血を引く約50人の親族たちが一堂に会し、慰霊帳に印を残すことで彼への敬意を表した。慰霊帳には、ワスケ・ヒロタを含む約12万5,000人の元収容者の名前が記されている。

ヒロタ家(1928)。左上からラファエラ、ワスケ、ローズ、ルイ、前列:マーレイ、ヘンリー。ラファエラはハーバートを妊娠中。写真:ヒロタ家提供。

親族は、慰霊帳の特別改訂ページに調印した最初の人々となった。当該ページには、ヒロタの妻であるラファエラ・マルティネスの他、5人の子どもたち(ローズ・ヒロタ、ルイ・ヒロタ、マーレイ・ヒロタ、ヘンリー・マルティネス・ヒロタ、ハーバート・フーバー・ヒロタ)、そして4人の孫たち(リリアン・ヒロタ・アルバレス、ポール・アルバレス、ピーター・アルバレス、ジョン・アルバート・ドミンゲス)の名前が記載されている。上記の全員が、ポモナとサンタアニタの一時的収容所に拘留されていた。

ポモナの第二収容センターから釈放後の1942年8月、ワスケの妻と家族だけがアズサの自宅に戻ることを許された。いわゆる「白人系」の人々を解放するため、政府の方針が変更されたからだ。家族の中でワスケただ一人が、ワイオミング州のハートマウンテン収容所に収容されることとなった。その後1944年、ワスケは心不全により収容所の中で息を引き取った。 

このワスケの生誕記念の会合には、ワスケから日本名を継承された親族が多数参加した。ワスケは彼らに日本名を残しながらも、実際に出会うことはなかった。現代の子孫たちは「グランマ・レイ」の愛称を持つワスケの妻、ラファエラの記憶を辿ることでしか、ワスケを知ることはできなかった。グランマ・レイはしばしばワスケについて、「彼は歩いて我々の元を去り、箱に入って帰ってきた」と語った。

ワスケ・ヒロタ、ハートマウンテン収容所にて撮影。写真:ヒロタ家提供。
会場にはハートマウンテン収容所で撮影されたワスケの写真と、彼の遺品である貴重な金の懐中時計が持ち込まれ、皆が目を見張った。懐中時計は、会合をまとめたナンシー・ウカイがディレクターを務める、収容所の歴史についてのウェブサイト「50objects.org」でも紹介されたものである。写真に映るワスケの胸元からは、同じ懐中時計が覗く。親族たちは写真に写るワスケの姿をじっくりと見つめ、彼の魂に思いを馳せた。

参加者の中に、クリーム色の着物に身を包んだ二人の日本人女性の姿があった。アルバレス、モラレス、マルティネスといった姓を持つ親族で溢れた会場で、この二人の姿は少し場違いに感じられた。しかし間もなく、長い時を経て繋がりを取り戻したアメリカの親族たちから、熱烈な歓迎を受けることとなった。

81歳のトリヤマ・カズエ・キヨミと、26歳のコサコ・カリンは、遠く大阪の地から、ハートマウンテンで亡くなったワスケ・ヒロタの子孫を探し続けていた。トリヤマの母はワスケが日本人の妻・リュウとの間にもうけた三人の子供の一人であった。

ワスケの前妻リュウと、その間に生まれた子ども。

ワスケとリュウは1899年にハワイへ移住し、そこで別れることとなった。リュウは日本に帰国し、ワスケはカリフォルニアへと向かった。トリヤマは、彼女が小学生の頃に「祖父はアメリカへ行ってそこで家族を持っている」と母親から聞いていたという。

トリヤマは、会ったことのない祖父がアメリカに家族を持っていることを知りながら、他の詳細は知らずにいた。しかし、自分の母親が亡くなった年齢と同じ81歳になった時、孫のカリンにインターネットで調査をしてもらうことにした。

トリヤマは、インターネットに詳しい孫娘の協力のもと、祖父と曾祖父に関する調査を進めた。その結果、50objects.org、Ancestry.com、janm.orgなどのサイトやソーシャルメディアサイトを通して、驚くべきつながりが明らかとなったのだ。

彼らは、アメリカの親族との出会いを夢見ていたが、調査を開始してから1年も経たないうちにそれが実現することになったのだ。トリヤマは、親族に向かってお辞儀をし、次のように語りかけた。「仏教の伝統では、亡くなった人を思うことこそ、私たちができる最大の奉納であると言われています」。親族に会うため海を渡り、慰霊帳に調印した彼女の目は、喜びに満ち溢れていた。

この会合は、単に一人物の人生を祝福する以上の意味を持っていた。収容所の歴史に関する綿密な調査が、世代を超越して、家族のつながりを蘇らせたのだ。これは会合の企画者であり、50objects.orgのディレクターでもある、日系アメリカ人研究者のナンシー・ウカイによる努力の賜物である。

ワスケのストーリーに惹きつけられたきっかけについて、ウカイは次のように語った。「ポモナ収容所の当局が作成した『混血婚家族(Mixed marriage families’ report)』という報告書に興味を持ったのです。彼のWRA(戦争移住局)ファイルに「死亡」の言葉を見つけたときには、とても悲しい気持ちになりました」。

彼女はさらに、「80年近く経った今、彼の子孫たちが、海を越えて集まる様子を見ると、まるで魔法のようです。私は子供たちが先祖の物語を継承し、この出会いの日を心に刻んでくれることを願っています」と続けた。

左から50objects.orgディレクターのナンシー・ウカイ、コサコ・カリン、トリヤマ・カズエ。

ワスケの親族の多くは、アズサに定住した。彼らは、自分たちが名前を受け継いだ日系アメリカ人の先祖、ワスケについてあまり知らなかった一方で、彼が日本に別の家族を持っているのではないかという疑惑も抱いていた。孫のラリー・ヒロタによれば、彼の父ハーバートは若者の頃、ポモナでの収容について、多くを語らなかったという。

現在63歳のラリーは、子どもの頃に他の子どもたちから日本の姓をからかわれたことを覚えている。彼の妹ヘレンもその思い出について憤りつつ、次のように語った。「日本語の勉強は一切させられませんでした。父は私たちをアメリカ人として育てようとしたのです」。ラリーと彼の妻は、父親と祖父に敬意を表し、彼らの息子にワスケの名前をオマージュした「ウィリアム」という名前をつけた。

ワスケの曾孫であるエイプリル・ギルバートが、彼の存在を知ったのは、10歳の時だった。後に叔父のレイモンドから家族の歴史を伝えていく役割を引き継いだ彼女は、家族の歴史を学ぶ過程で民族のアイデンティティの重要性を痛感し、その意義を自身の二人の息子に伝えることに強い意志を持った。

家族の歴史家エイプリル・ギルバートが、プロジェクトディレクターのダンカン・リュウケン・ウィリアムズの協力を得ながら、慰霊帳に押印。

慰霊帳プロジェクトのディレクターを務めたダンカン・ウィリアムズは、プロジェクトを総括するにあたり、仏教の概念である「ご縁」について言及した。彼はご縁について、神秘と偶然によって生み出される因果的なつながりであり、それによって奇跡が起こることもあると説明した。さらに、カリフォルニア州で異人種間の結婚が違法だった時代にメキシコ/ネイティブ・アメリカンのラファエラ・マルティネスと出会い、メキシコのティファナで結婚するに至ったワスケの物語にも、ご縁が存在していただろうと述べた。

不当な拘禁、家族の分断、そして最終的な死にもかかわらず、この多民族家族の結束が実現されたのも、ご縁のおかげといえるだろう。また、遠く離れた大阪に住む2人の女性がインターネットを通じてルーツをたどり、ワスケ・ヒロタの親族と巡り会ったのも、何か魔法のようなものが働いた結果に違いない。

慰霊帳への押印が、厳かながらも嬉々とした雰囲気で執り行われた翌日、親族はアズサにあるワスケとラファエラの墓地を訪れた。トリヤマはしきたりに習い、広島から持参した水で祖父の墓石を清めた。

ワスケの2番目の妻であるラファエラの墓地での写真。撮影:ルイ・ヒロタ・ジュニア。

1941年に撮影された、ハーレーダビットソンとヒロタ家の4人の息子たちの写真がある。トリヤマと孫娘が、同型の現代版に乗ってみせると、親族たちは幸せな雰囲気に包まれた。

(左)ヒロタ家のハーレーダビットソンに乗るトリヤマカズエとコサコカリン。撮影:ルイ・ヒロタ・ジュニア。 (右)ヒロタ家の息子たちハーバート、ヘンリー、マーレイ、ルイ(1941)、カリフォルニア州、アズサにて。撮影:ラリー・ヒロタ。

ワスケ・ヒロタの150歳の誕生日を記念を機に企画されたこの会合は、家族に多大な喜びと永遠に続く絆をもたらした。最も大きな役割を果たしたのは、過去の出来事を称えることで参加者たちに学びと癒しを与えた、慰霊帳であったといえるだろう。

 

© 2023 Sharon Yamato

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このシリーズについて

このシリーズでは、「慰霊:第二次世界大戦中の日系人強制収容の全米記念碑」プロジェクトの一環として、全米75か所におよぶ強制収容所に収容された12万人を超える日系人の名前を記録した3部からなる記念碑の一つである聖典「慰霊帳」を取り上げます。またこのシリーズでは、強制収容に直接繋がりのある方々へのインタビューを通して彼らに敬意を表すとともに、このプロジェクトが彼らの人生に与えた影響について考察していきます。

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執筆者について

シャーロン・ヤマトは、ロサンゼルスにて活躍中のライター兼映像作家。日系人の強制収容をテーマとした自身の著書、『Out of Infamy』、『A Flicker in Eternity』、『Moving Walls』の映画化に際し、プローデューサー及び監督を務める。受賞歴を持つバーチャルリアリティプロジェクト「A Life in Pieces」では、クリエイティブコンサルタントを務めた。現在は、弁護士・公民権運動の指導者として知られる、ウェイン・M・コリンズのドキュメンタリー制作に携わっている。ライターとしても、全米日系人博物館の創設者であるブルース・T・カジ氏の自伝『Jive Bomber: A Sentimental Journey』をカジ氏と共著、また『ロサンゼルス・タイムズ』にて記事の執筆を行うなど、活動は多岐に渡る。現在は、『羅府新報』にてコラムを執筆。さらに、全米日系人博物館、Go For Broke National Education Center(Go For Broke国立教育センター)にてコンサルタントを務めた経歴を持つほか、シアトルの非営利団体であるDensho(伝承)にて、口述歴史のインタビューにも従事してきた。UCLAにて英語の学士号及び修士号を取得している。

(2023年3月 更新)

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