1931年11月11日夜に開かれた羅府日本人会参議員会で、毎週一回のラジオ放送を行うことが決議された。これに基づき、同年12月5日より日本人会(赤司郁会長)が担当したいわゆる「羅府日会放送」がバーバンクのKELW局で開始された。毎週土曜日の19時半から30分間、日本語および英語の放送が行われた。
アナウンスは前年の「日本人放送局」(第2回参照)での経験者である羅府新報の前田輝男(国本輝堂)が担当した。KELW局は早朝にメキシコ移民社会向けのスペイン語番組を持つことでも知られていた。このため日本語による放送にも理解があったものと考えられる。
アメリカの業界誌「ブロードキャスト」(1931年12月15日)によると、この番組は二つの目的を有していた。ひとつはロサンゼルス周辺在住の日本人に対する慰安であり、もうひとつは観光地としての日本への関心を引くためであった。
しかし、後者については表向きの説明であると考えられ、実際は満州事変(1931年9月)以降常に批判にさらされている日本の立場をアメリカ社会に広く説明するということや、日本人に対する差別解消に力点が置かれたようである。
1931年12月3日の羅府新報に「羅府日会の放送開始 全機能発揮を望む」と題された記事が「輝」の名前で掲載されている。番組のアナウンスを担当する前田輝男が書いたものと思われる。前年の日本語放送中止の反省を踏まえた注意喚起が含まれるコメントとなっているのも、経験者ならではのことと考えられる。
初日の番組内容について、羅府新報が次のように報じている。
まづ赤司会長は日本人会専属放送局設置について所感を披歴し一般在留民の協力を希望し次に野村書記は英語にて日本人独特の技倆を有する園芸部の紹介をなし次に迎田副会長は満州事変と日本の立場と題して米人間に宣伝するはずだったが支那側よりも弁士出席することになってゐたのが見えぬからと延期した旨を一言挨拶し最後に茶音頭の三曲合奏あって第一回を終り次回は井筒屋君代師匠及び篠原ドクトル夫人出演の予告があった。
(『羅府新報』1931年12月6日)
第2回は野村文哉書記によるスピーチ「日本人労働関係の理解を求む」(英語)に続き、長唄「秋の色種」、「三下り」、「大津絵」等が篠原夫人、井筒屋君代師匠および横井夫人等の唄や三味線伴奏で放送された。加えて「市内実業家紹介」もあった。
第3回の番組では満州問題について、中国側代表のB.チャング氏と、日本人会を代表して羅府新報英文編集者のヘンリー島内がそれぞれの立場を論じた。余興としては吉調会義太夫の野澤吉調師匠と吉田亀鶴による「大棹の七福神船遊び」が放送された。
1932年に入り第4回の番組が1月9日に放送された。内容は赤司郁会長の新年挨拶、社会への抱負、種々取り混ぜた日米音楽とされている。
回を追うごとに邦字紙上での取り扱いが小さくなり、第5回以降は番組内容を報じる新聞はなくなった。当時の羅府日本人会記録をみると、「ラデオ放送中止について」という議題が2月2日および10日に登場している。日米新聞(1932年2月13日)では10日夜の日本人会参事員会で、放送中止が決定されたと報じている。
毎回の番組制作および放送料金負担がネックになったものと想像される。折しも1932年1月末に日本人会の会長選挙が行われ、ラジオ放送を推進してきた赤司郁に代わり、迎田勝馬が新会長に就任したことも関係するのかもしれない。
*本稿は、『日本時間(Japan Hour)』(2020年)からの抜粋です。