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第12回(後編)国語学校での2世教育

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教科書問題

『北米時事』の1919年2月13日号1の記事には、国語学校で使う教科書について話し合いがもたれたことが記されている。

「シアトル国語学校にては兼て教科書編纂の議あり。学務委員会にてしばしば協議の結果当ワシントン州各地国語学校教師並びに維持会役員、学務委員等の意見を徹して最後の決定をなし編纂に決せば協同事に当ることゝなりたるより、一昨日実業倶楽部に於て州内15校当事者会を催したるが、出席者は8校を代表せる。

植村(スポ―ケン)、槇山、山下(ケント)、住吉(ウインスロー)山際(ベルビュー)、木下、及川(ファイフ)、友貞(オロリア)、柿原(ポートブラツレー)、熊谷(グリンレーク)諸氏、シアトル国語学校側は高畠校長以下教師6名、伊東維持会長、秋吉学務部長、天野、橋口、永井、土屋の学務委員諸氏にて伊東氏を座長に推し懇談会となした。

(中略)秋吉氏は沿岸協議会が本問題に関し昨年来調査を進めつゝある如くあると。サンフランシスコ及びロサンゼルスに於ては既に着々と編纂を行ひつゝある如くなれば、教科書を改訂するか、或は新た編纂するの要あるは各地共之を認め居れるのと見るべきは改訂若しくは編纂の時機到来せりと述べた。

高畠氏は現在使用の文部省国定教科書内容中不適当の個所及び児童に採りて余りに困難なる個所に就て説明。

(中略)来会あらざりし6校の意見を求め当国語学校学務委員会にて多数意見に従ひて決定すること。編纂着手の際には費用は一般寄附に仰ぐことゝし、且つ本年より毎年一回州内国語学校関係者の懇談協議会を開くことを可決した」

この記事から、米化主義を推進するために、それまでの日本と同じ教科書から新しい教科書の編纂の動きが高まっていたことがよく伺える。文献によると、1920年から27年にかけて8巻からなる新しい教科書『日本語読本』が刊行された。高畠氏がこの教科書の編集主任だったと推測されており『高畠版』と呼ばれている。


シアトル国語学校長・高畠虎太郎

1919年2月18日号の「一日一人人いろいろ」では、シアトル国語学校長、高畠虎太郎が紹介された。

「福岡県人会長、国語学校校長たる彼は、淡影と号して俳句に長けている丈(だ)け人物は稍(やや)俳味(はいみ)をおびている。嘗て北米時事記者たり。旭新聞にも筆を取り、現在は大北日報記者をしている。斯く新聞界は浮気したが学校の先生だけは10年1日の如く始終している。沈黙寡言(かげん)一向要領は得ぬようだが、実はあれはなかなか要領を得る男である」

高畠は1909年から1928年までシアトル国語学校校長を務め、国語学校の運営に多大の貢献をした。 


東京校長の米国見学団のシアトル訪問

1919年には東京から小学校の校長先生らがシアトル国語学校を訪問した。その際の様子などについていくつかの記事が1919年1月10日号で紹介された。

「東京校長米国見学団」 

「昨年10月山科実業使節と共に春洋丸にてサンフランシスコに上陸し、東部各地の学校を参観し教育制度を視察研究したる東京高小学校校長米国見学団は守屋団長を除き16名(氏名記載)各校長諸氏がセントポールより昨日シアトルに到着した。

(中略)昨日1月9日は高畠シアトル国語学校校長、中島日会書記の案内にて先ずメインスクールを参観。親しく授業の模様を視察し、午後に領事館教育課他知名の公立小学校を参観したり」

一行見聞談

「以前の小学校長見学団は順序を作る時は当西北沿岸を逸したれば、シアトルの事に就ては何等の智識なく、又日本に於てもシアトルを知る人稀なるが、今回此地に来りて同胞の発展状態に接触し、其意外の進歩に驚きたり。見聞悉(ことごと)く新たなるも、就中(なかんずく)米国に在る同胞児童が強壮なる体格にて生気溌剌(はつらつ)たる血色には愉快を禁じ能はず。

之を日本児童にして我等に学校に来り居る小学生徒の多くが血色悪しく貧弱たる健康状態に在るに比して感殊に深く在米児童の発育良好なるは欽羡(きんぜん)に堪(こた)へず。而(しこう)して到る所の同胞児童教育の困難なる先達者当局者の苦心せらるゝ所にて我等本邦に在りて其局に当たる者は在外当局者の苦心に同情に堪へず。(中略)在米同胞諸君が在留民の為、我が国家の為に奮闘、努力せらるゝに深く敬意を表す」

見たり聞たり

「日本の校長先生が米国の暖房設備に驚いた。日本では火鉢しかなく、先生が口では『寒気に耐えねば大人物になれぬ』と言っているが実は先生もぶるぶる震えている」

「東京校長米国見学団」(『北米時事』1919年1月10日号)

ある文献には、視察団がシアトル国語学校を訪問し、多くの寄付により校舎が建設され、机、腰掛等も完備していることに驚いた事が記されている。又北米時事社の宮崎徳之助氏は一行が宿泊しているホテルを来訪し『北米年鑑』を視察団全員に手渡し喜ばれたそうだ。


1934年以降のシアトル国語学校

1934年以降、国語学校の盛況の様子を掲載した記事が多く見られる。

「国校の夜学」(1934年12月1日号)

「国語学校でハイスクール卒業生を対象に一週一夜、20時から21時迄の夜学を開始する」

「教師懇談会」(1935年10月17日号)

「11月14日にシアトルで第14回西北部教師懇談会が開催される」

「国校巡査慰労」(1938年12月22日号)

「寒い冬の夕刻に国語学校へ通うシアトル国語学校の生徒、1200名の交通安全を守る少年巡査達の慰労会を行う」

 国語学校の卒業式に関する記事も多くみられる。下記にその概要をいくつか紹介する。

「国校卒業式」(1938年3月26日号)

翌27日に国語学校の卒業式が日本館で行われ、卒業生は小学科129名、中学科1名とある。卒業生中の優等生の25名(男8名、女17名)の氏名が記載されていた。

「国語学校の修業式と卒業式」(1939年3月25日号)

この年の卒業生は小学科137名、中学科7名だった。十ヶ年皆勤賞が中学科の女子生徒2名に授与された。

「シアトル国語学校第32回卒業式」(『北米時事』1940年3月30日号)

「第32回卒業式」(1940年3月30日号)

卒業生は小学科118名、中学科、9名、計127名。卒業生の優等生小学科28名(男5名、女23名)、中学科5名(男1名、女4名)、皆勤生19名の氏名が掲載された。

何れの年も優等生に女子生徒が非常に多いことに驚く。1920年頃の卒業生は10数名だったが、1939年には144名にもなっていた。


シアトル国語学校長・中河頼覚(よりあき)

文献によると中川頼覚氏は1925年にワシントン大学に通いながらシアトル国語学校の教師として加わった。1929年に校長となり1941年12月7日にFBIによって逮捕されるまで国語学校を支え続けた。

「国校行進曲」(1938年7月12日号)

「国校行進曲・中川校長が作詞」(『北米時事』1938年7月12日号)

「中河頼覚国語学校長は今回『国校行進曲』を作詞したので後援会では松山芳野里氏に作曲を依頼。夏季学校開始と共に練習を重ねレコードに吹き込んだ由である。(中略)行進曲の歌詞は左の如し

『仰げひらめく星条旗 
星ぞ市民の心なる 
自由と忠誠(まこと)あらはせる 
我等の旗は世界一』」

文献によると、作曲家の松山氏が同校を訪れたのを機会に曲をつけてもらい、歌のレッスンも授かったという。この行進曲は生徒に馴染みの曲となり、卒業式や運動会で盛んに唄われた。

1938年10月14日号には、国語学校学芸会で国校行進曲が勇ましく歌われたと記載されている。

国語学校運動会

毎年初夏に行われた運動会は、シアトル在留日本人のほとんどの人が参加する一大イベントであった。

「国校の運動会」(1938年5月31日号) 

「雨模様の空も、お昼前から晴れて国校運動会は堂々たる喇叭(ラッパ)の音を合図に去る29日午前11時ゼェファーソン公園にて開始された。午前中に5年生までの競技を終わり、昼食後は飛行機落としやオリムピック・リレー又は遊戯、合唱等があり午後5時校長の挨拶で終了を告げた。雨の風で薄ら寒い日和だったが、それでも運動場には多数の父兄が黒山を築いた。(写真は生徒の競技見物の父兄達―カーウイン君撮影)」

「国校の運動会」(『北米時事』1938年5月31日号)

二世達はアメリカの公立学校での勉強の傍らに国語学校で日本語の勉強をするという過酷な環境下にありながら努力奮闘し、その後のシアトル日系人社会を支えていったのだ。

シアトル国語学校は戦後「ワシントン州日本文化会館」内のプログラムとして再生した。会館は、日本文化を共有する場として多くの人に利用されている。

次回は二世の二重国籍問題と結婚問題についての記事をお伝えしたい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む) 

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

 

参考文献

東京市教育会編『小学校校長団の観たる米国の教育』1920年

『北米年鑑』在米日本人會、1928、1936年

在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年

奥泉栄三郎監修『シアトル版日本語読本1920-30』文生書院、2012年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年4月4日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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