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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/4/24/eriko-higa/

日本生まれボリビア育ち・アメリカで弁護士になった比嘉恵理子さん

コメント

 

ボリビア移住50周年記念の集合写真(写真提供:比嘉恵理子さん)    

両親はボリビアの「コロニア・オキナワ」育ち

移民法弁護士としてロサンゼルスを拠点に活躍している比嘉恵理子さんとは、某日系ビジネス団体の会報向けに取材させてもらったのが最初の出会いだった。「父親の仕事でアメリカに移ってくる時にビザ手続きがなかなか順調に進まず、非常に苦労した自身の経験を現在の仕事に生かしています」と話す比嘉弁護士からは、「祖父母は沖縄出身のボリビア移民で、私の両親はボリビアで生まれました」という話も飛び出した。

聞けば、比嘉さん自身は、ボリビアから日本に出稼ぎに行っていた父親の仕事先の栃木県生まれで、小学生の時に両親、妹と弟と共にボリビアに帰国したのだと言う。そこで高校生の途中まで過ごしていたが、日本時代から勤務していた会社のアメリカ法人立ち上げに伴い、アメリカに駐在することになった父に帯同するため、比嘉さん一家は一旦日本でビザの発給を待った後に、ミシガン州デトロイトに移って来たそうだ。

沖縄系の方から話に聞くことがあった「コロニア・オキナワ」が、比嘉さんの祖父母が最終的に定住した地であると知り、また日本とボリビアで育った比嘉さん自身のアイデンティティーに興味が湧いた私は、彼女の家族の移民史を含め、改めて話を聞く機会をいただいた。

「最初にボリビアに移住したのは母方の祖父母、山城保徳と邦子で、1950年代のことでした。第二次大戦後、沖縄は米国の統治下に置かれ、土地不足になり、海外移住の気運が高まっていたそうです。しかし、祖父が農業に従事するために最初に移住した土地は原始林の中で、しかも水害に悩まされ農業に向かなかったので、次の場所に移りました。しかし、そこもまた問題が多く、結局、日系人が多く集まっていたコロニア・オキナワに落ち着きました。祖父はそこで牧畜、綿花の栽培と次々に事業を始めては失敗するということを繰り返しましたが、最終的には成功を収めました。

沖縄では学校の教師だった祖母は、5人の子どもの世話で忙しく過ごしていました。父方の家族がボリビアに渡ったのは母方の家族の移住よりも後でした。そして、父と母はコロニア・オキナワの中の小学校の同級生として出会いました。コロニア・オキナワ内には小学校があったのですが、卒業すると皆、一番近いサンタクルスという街の中学に入学し、寮生活を送っていたということです」。

祖父の山城保徳さんがボリビアに出発する前の送別会の模様(写真提供:比嘉恵理子さん)


相手によって言葉も対応も切り替わる

比嘉さんが小学校2年生から16歳まで住んだのもサンタクルスだった。「サンタクルスからコロニア・オキナワまでは車で1時間ほどです。父は会社の仕事以外に、そこに土地を所有して牧畜に従事していたこともあり、私たち一家はよく祖父母が暮らすコロニア・オキナワを訪ねていました」。しかし、16歳の時、比嘉さんの母親が亡くなってしまう。その時点で父のアメリカ行きに帯同することが決まり、前述のように日本でビザ発給を待った後、高校最後の学年からアメリカでの生活が始まった。

日本とボリビアのバックグラウンドを持つ比嘉さんにとってはダイバーシティーの国アメリカでは非常に学ぶことが多いと同時に、母を亡くした後で妹や弟の世話に追われ、アメリカが合うとか合わないとは深く立ち止まって考えるゆとりはなかったと振り返る。

その後、大学で国際関係を専攻し、ミシガン大学ロースクールに進み弁護士になった比嘉さん。現在は自身を「どこの国の人」だと受け止めているのだろうか。

「私は両親が日系ボリビア人だということで、日本で育っていた時から日本生まれの日本人とは少し違うと思っていました。ボランティア精神旺盛な母が民族衣装を着て、私の小学校でボリビアについて紹介したりもしていたので、自分はどちらかというとやはり日系ボリビア人なんだという意識がどこかにあったのだと思います。その後、ボリビアでも当時は普通に生活していたのですが、今、改めてボリビアを訪ねようとしても、『アメリカ生まれの子ども同伴となると治安が心配だな』とか『水が怖いな』とあまり積極的になれないのが正直なところです。でも娘にはいつか、自分の祖先が今の礎を築いてきたボリビアを見せて、今も現地で暮らす私の祖母や親戚に会わせてあげたいです」。

それでも日本語、スペイン語、英語を話すことができる比嘉さんは、仕事でアメリカ人と話す時、日本人と話す時など相手によって言葉だけでなく対応も、必要に応じて瞬時に切り替わるのだと話す。


祖父母の移民経験が自らの糧になっている

日本とボリビアを経て、ダイバーシティーの国アメリカに来て20年近くが経つ比嘉さんは、この国で結婚し母になった。

「祖父母が移住先のボリビアで数々の苦難を乗り越えたことが、自身の支えになっている」と語る比嘉恵理子さんとお嬢さん

「夫はベネズエラ生まれ、ドイツ育ちの韓国人です。家では(韓国人がするように)誕生日にはワカメスープを食べます。かと思うとお正月は日本のおせち料理を並べたりと、子どもも韓国文化、日本文化、アメリカ文化に触れる機会があります。私たち夫婦は共働きで会うのは夜だけ。家族で過ごす時間は英語中心で、残念ながら他の言語を積極的に教えることができておらず、娘は韓国語や日本語をほんの少ししか話せませんが、できるだけ主人と私、それぞれの先祖の文化に触れる機会を与えるようにしています」。

今後、日本に短期で住むかもしれないが、最終的にはやはりアメリカだろうと話す比嘉さん。ボリビアに移住した祖父母も、周囲の人々が日本に引き揚げる中、最後までコロニア・オキナワに住み続けた。彼らが移住先を終の住処にしたのはなぜだと思うかと比嘉さんに聞くと、彼女は次のように答えた。

「なぜでしょう。引き揚げの話は一度も出なかったようです。祖父母が残った理由として言えるのは、祖父が非常に楽観的な性格な人だったからではないかということです。沖縄を出る時も暮らしや仕事に困っていたわけではなく、むしろ恵まれた境遇だったのに移住に挑戦しました。しかも、ボリビアでも事業の失敗を繰り返してもチャレンジ精神を失うことはありませんでした。

日本からボリビアに渡る際アパルトヘイト下にあった南アフリカで1日観光をした際に人種差別にあった話、移住直後叔母が生まれたとき水害で村全体が水に浸かる中、一緒に移住した助産婦さんを馬で迎えに行った話、綿花の栽培で大失敗した話をご自慢のネタとして面白おかしく語る祖父でした。移住者として祖父母が大変な苦難を乗り越えたという事実は、自分もきっと祖父母が苦労話を笑い話に変えたように、乗り越えられるはずという私の大きな支えになっています」。

 

© 2023 Keiko Fukuda

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執筆者について

国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社勤務を経て1992年渡米。ロサンゼルスの日本語情報誌の編集長を2003年まで務めた後、同年フリーランスとして活動開始。人物取材、アメリカの教育事情、日本食事情などをテーマに取材を続け、2024年に郷里の大分に活動拠点を移す。その後もオンラインを通じて取材執筆活動に従事。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2024年10月 更新)

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