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イノマタ家とキンジ家:驚くべき一家の物語

最も卓越した日系アメリカ人一族の物語に与えられる賞があるとすれば、イノマタ一族は有力な受賞候補になるだろう。その内容は、キンジ・イノマタの著書『Pure Winds, Bright Moon』や、その他の補足資料で明かされている通りだ。イノマタ一族の歴史は、日系アメリカ人とその人生、他の人種グループとの関わりについての人々の安易な思い込みを覆してくれるだろう。

この一家の物語は、ケンジ・イノマタという日本人の少年から始まる。彼は、ツナ・イノマタ(旧姓クガ)とウスケ・イノマタの息子として新潟県柏崎で生まれた。ケンジの父は、1895年に旅先で突然亡くなり、当時10歳だったケンジは、叔父(伯父)の家に奉公に出された。

その直後、ケンジは英国人の船長と知り合い、英語を教えてもらう代わりに船長に日本語を教えた。ケンジは彼の船にひそかに乗り込み、最終的に船内で給仕係の仕事を得た。

たくさんの港への寄港を経て、1900年頃のある日、ケンジの船はニューヨークに入港した。そこでケンジは船から飛び降り、岸辺まで泳き、米国に不法で住み着いた。

その後の数年間、ケンジはニューヨークで暮らしたようである。1906年にはブルックリン海軍工廠付近のサンズ・ストリートでウェイターとして働きながら生活していたことが記録されている。その年の12月、ケンジは海軍が給仕を探していることを知り、海軍三等給仕兵として入隊した。海軍募兵官が、ケンジの姓名を書類に逆に記載し、イノマタ・キンジとして登録したことで、それ以降、これが彼の公式名となった。

それから数年間、キンジは戦艦インディアナで任務を務め、軍務で世界各地に寄港した(エジプトのポートサイドへの入港時にはピラミッドを訪れた)。その後キンジは戦艦ニュージャージーや戦艦メイン、装甲巡洋艦ノースカロライナに乗船した。

1916年、キンジはフロリダ州ペンサコーラの海軍航空ステーションに配置され、その後21年間、海軍の陸上基地で任務に就いた。キンジは昇進し、指揮官担当から幹部担当の給仕兵となり、一等給仕兵の地位を獲得し、大将や艦長に仕える立場となった。さらに第一次世界大戦の英雄で、海軍基地司令官のハーレイ・ハンニバル・クリスティ大佐の給仕兵を数年間務めた。(この頃、後にウィンザー公爵夫人となる、当時海軍航空士官と結婚していたウォリス・シンプソンにも会っている)。

ペンサコーラ海軍航空基地での兵役期間中、キンジは近隣地域で暮らした。1918年には地元生まれの南部人で、黒人と白人(おそらく先住民も)のミックスレイスのジェネビーブ・ベッカムと結婚し、ジェネビーブの息子、アルバートも一緒に暮らすようになった。2人の間には、その後10年間で6人の子が生まれた(7人目の子どもは10年以上経ってから生まれた)。

1919年1月、キンジと第一次世界大戦で戦った退役軍人のカゲミチ・サコという日系一世が、フロリダ州北部連邦地方裁判所で米国市民権の取得申請を行った。当時、日本人の帰化は、1790年の移民法で禁止されていたが、キンジとサコは、米軍に従軍し名誉除隊したすべての外国人に市民権を与えるという1918年5月9日の議会制定法を根拠に、帰化の権利を訴えた。(外国人と結婚することで失われることになる新妻の市民権が危険にさらされぬよう、また、異人種間での結婚であるために人々の反感を買うことを回避するため、キンジは申請の際に未婚であると申告した)。クリスティ大佐は、2人の少尉を証人として裁判所に送り、「キンジ下士官は、“金の縞紋章”を獲得した模範的な軍人であり、道徳的な人格者である」と証言させた。

海軍将校からの強力な支援を受け、ウィリアム・ボストウィック・シェパード判事は、キンジとサコに市民権を与えた。ニューオーリンズ帰化審査官のJ.C.ケレットは異議を申し立てたが、シェパード判示は却下した。(米国連邦最高裁はその後、1922年のオザワ裁判で日本国籍の外国人は市民権の取得資格がないと判断した。この判決は、既に帰化していた多くの日系人を帰化者名簿から排除することにつながった。キンジが取得した市民権がはく奪されることはなかったが、1935年に議会でナイ-レア法が通過するまで、第一次世界大戦で戦ったアジア系の退役軍人には帰化申請の法的資格は付与されなかった)。

1927年、キンジは現役勤務を終え、予備兵となった。ジム・クロウ法下のフロリダに住む異人種カップルが得られる雇用機会は限定的で、人種差別の敵意にもさらされた。キンジは表向きの必要性からペンサコーラの住居を持ち続けたが、1928年に家族でロサンゼルスに移住した。現地のニッケイは、キンジ家のミックスレイスのアイデンティティに偏見を持ち、リトルトーキョーのホテルの所有者さえ、キンジ家を追い出した(7人の小さい子供たちがいたことから、騒音も原因のひとつだったのかもしれない)。最終的に一家は、ロサンゼルス中南部のリグレー・フィールドに家を購入した。

ロサンゼルス到着後の最初の10年間、キンジ家は経済的にかなり不安定な生活を送った。イノマタ・キンジは、歌手/俳優のアル・ジョルソンの付き人として一時期働き、その後、アパートの管理人兼雑用係となった。キンジは他の雑用仕事もこなし、1930年の国勢調査には検眼医院の用務員と記載されている。

1937年、海軍を除隊したキンジは、ロサンゼルス市水道電気局の用務員として採用された。その結果キンジは、アジア系の雇用を拒否することで有名だった同市水道電気局に採用された最初の日系一世となった。キンジの長男のイノマタ・キンジ・ジュニアも、マクレラン空軍基地で民間人整備士の助手の仕事を見つけた。二人の稼ぎによって一家の生計は改善され、キンジはメキシコ人牧場主からもっと広い家をイースト43番地に買った。

周囲からは人種を理由に敵意を向けられていたが、若い世代はロサンゼルスの都市部の多文化社会で、さらには日系アメリカ人コミュニティでも、自分たちの地位を確立していった。一家の唯一の娘であるセシリア・テイス・キンジは、ジェファーソン高校の人気者で、エリートが所属するエフィビアン・ソサエティに選出された。テイスが二世の社交クラブ「カリファンズ」で社会活動をしていたことは、二世の出版物に記録されている。

1939年に高校を卒業後、テイスは中国系で西インド諸島系でもあるジャズサックス奏者のウィリス・ルーイと結婚した。長男のイノマタ・ジュニアは、カーボ・ベルデとキューバにルーツを持つベーカーズフィールド生まれのオーガスティーナ(ティナ)アンドレードと出会い、結婚した。マサオ・ヘンリー・ケンジは、高校時代の恋人であるシカゴ生まれのアフリカ系アメリカ人のヘンリエッタ(ヘニー)・ダンと結婚した。3人の結婚は、羅府新報でも報じられている。

真珠湾攻撃と米国の太平洋戦争への参入の結果、1942年初頭にイノマタ・キンジ・シニアは人種を理由に解雇された。ロサンゼルス市長のフレッチャー・ボウロンは、米国公務員規則への抵触を回避して日系人を解雇するため、すべての日系人職員に対し、“任意”で休職あるいは退職届けを提出するよう圧力をかけた。その結果、イノマタ・ジュニアも職を解かれた。

仕事を失ったキンジ家は困窮し、さらなる危機がすぐそこに迫っていた。1942年3月上旬、米陸軍は日系アメリカ人を西海岸から排除する命令を下し、憲兵はイノマタ・ケンジ・シニアに対し、“避難”のために民事監督局に出頭するよう要請した。キンジ・ジュニアは、立ち退きを回避するために行動を起こした。海軍の制服を着用した父を撮影し、クロード・スワンソン海軍長官からの称賛の書簡をフォトスタットで複写して転住局職員に提出し、適用除外を検討するという約束を取りつけた。

その間キンジ・ジュニアは、セントラル・アベニューのアメリカ黒人在郷軍人会副官だったジョージ・W・バールソンに支援を要請した。キンジ・ジュニアは、家族のメンバーが異人種と婚姻関係にあることを理由に、“避難”対象からの除外を求める手紙の文案を作り、バールソンがそれに署名して西部防衛軍司令官ジョン・デウィットに送った。バールソンは、キンジ家は非日系人として生活し、いかなる日系コミュニティにも属していないことを保証した。一家の日系社会との距離は、彼らが国家安全保障上の脅威ではないことと、公務員としての適性があることも示していた。その1週間後、デウィットの代理であるR.P.ブロンソン副参謀補佐官から回答があったが、そうした主張はばかげていると退けられた。

最終的に一家は、司法省に適用除外を申請した。1942年の初春、キンジは家族と共に司法省職員との面談のため、ロサンゼルスの連邦庁舎に出向いた。(司法省職員は、多人種の一家を見て、キンジが国際連盟を連れてきたと冗談を言った)。一家は、キンジが長年兵役に就いていたことと帰化市民であることを理由に、ウィリアム・フリート・パルマー連邦検事に適用除外を嘆願した。キンジは、帰化申請時と同様にハーレイ・ハンニバル・クリスティ大佐(この頃には海軍中将に昇格していた)やその他の海軍将校からの宣誓供述書を提出した。

聞き取りに続き、キンジはFBIとアメリカ海軍情報局(ONI)の取り調べを受けた。ONI捜査官が事情聴取のために自宅に到着した時、キンジは逮捕されると思って協力を拒否した。捜査官から来訪の意図を説明され、納得したキンジは、2人の非武装捜査官が家に入るのを許し、居間で聴取に応じた。

1942年4月、米国連邦検事局は除外の申請を受け入れ、キンジ一家に西海岸への残留許可を出した。(パルマ―連邦検事は、この直前にも第一次世界大戦で戦った海軍退役軍人のニスケ・ミツモリの除外を許可していたが、デウィットが3回目の夜間外出禁止令を発令した時、あらゆる除外措置が無効化されていた)。

しかし、司法省がイノマタ・キンジの立ち退き免除を認めたとしても、西部防衛軍が彼の子どもたちを含めて、認めるかどうかは予測できなかった。最終的に、軍の厳格な原則規定とは異なるが、ミックスレイスの人々や異人種夫婦に適用される陸軍の免除方針に従い、正式な許可証(ラミネート加工されたIDカード)が発行された。陸軍は確かに、ミックスレイスであることを理由に一家への寛大な扱いを求めたイノマタ・ジュニアやジョージ・バールソンの主張をはねつけたが、この議論が結果的に陸軍の悪名高い方針の策定につながったのかどうかは議論の余地がある。

キンジ一家は、1942年中頃の集団立ち退きは免れたが、一家の年少者たちは学校でいじめられ、反日集団から人種を理由に迫害を受けた。さらに一家の経済的窮状は、父と長男が積荷事務員の仕事を得るまで続いた。戦争の最後の年、イノマタ・ジュニアは積極的にカトリック異人種協議会と共に活動し、特にエスター・タケイなど、日系人収容者の西海岸への帰還を支援するための世論形勢に貢献した。タケイは、偏狭な反日主義者からパサデナ短期大学への入学を反対されていた。

イノマタ・キンジは1948年にリタイアした。晩年彼は、家族の異なるメンバーと暮らし、1967年の記録には、ワシントンDC在住と書かれている。キンジは、妻の死後間もなく、1974年に亡くなった。

イノマタ・キンジの子どもや孫たち1は、さまざまな分野に挑戦した。父の後に続いて軍に入隊した子供たちもいた。その1人がマサオだった。芸能の世界を選んだのは、マサオの息子、ヘンリー・キンジだった。ヘンリーは、ハリウッドの伝説的なスタントマン兼俳優となり、息子のヘンリー・キンジ・ジュニアもスタントマン兼助監督となった。ヘンリー・キンジ・シニアは、妻のリンゼイ・ワグナー(1970年台のテレビシリーズ、『地上最強の美女バイオニック・ジェミー』のスター女優)と2人の息子、ドリアン・キンジとアレクサンダー(アレックス)・キンジをもうけた。ドリアンとアレックスも父と同様にスタントマンとなり、俳優や監督としても活動している。

キンジ一家は、集団立ち退きを免れたことから、1988年の市民の自由法から除外された。しかし、家族の複数のメンバーが申し立てを行ったことで、最終的に賠償金が支払われた。一家(日系以外のメンバーを含む)は、強制収容所に送られることは免れたが、大統領令9066が発令されたことで、経済的困窮と差別に耐えなければならなかった。キンジ一族には他に類を見ない特徴があるが、彼らの物語も、典型的な日系アメリカ人のそれである。


注釈:

1.キンジの孫息子、リカルド・ジロウ・キンジのストーリーが、ディスカバー・ニッケイに掲載されている。

© 2023 Greg Robinson

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