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元ジャーナリストで現米日カウンシルのVP — フレッド片山さん

フレッド片山さん

日系人社会から白人社会へ

私がロサンゼルスに移住した30年前、日系アメリカ人アンカーとして現地テレビのニュースで大活躍していたのがトリシア・トヨタさん。1995年に起こった阪神淡路大震災の際には、彼女が現地に飛んで被災者を取材していた映像を今も思い出す。他にもスポーツキャスターのロブ・フクザキさんや、2021年秋に日本政府から旭日小綬章を受章したKABCのアンカー、デビッド・オノさんも有名な「日系アメリカ人のジャーナリスト」だ。

そして、2022年の夏にオンラインで取材する機会を得たフレッド・カタヤマさんは、NHK、CNN、ロイターテレビジョンを舞台に取材活動を続けた「日系アメリカ人の元ジャーナリスト」。現在は米日カウンシルのバイスプレジデントを務める彼はジャーナリズムの世界からはシフトしたが、その業界経験はほぼ40年に及ぶ。

彼と知り合ったのは、パンデミック前に、ある団体がロサンゼルスで主催したパーティーだった。日系アメリカ人でありながら日本語が流暢なことが印象的なフレッドさんに、その2年後の同じ主催元のパーティーで再会した。その時、彼のタイトルは「ロイターテレビジョンのアンカー」から「米日カウンシルのバイスプレジデント」に変わっていた。なぜ、ジャーナリストから日米交流の非営利団体に転職したのか、そもそも彼はどのような生い立ちなのか、興味を持った私はニューヨーク在住の彼に取材を申し込んだ。

1960年にロサンゼルス市で生まれ、東郊のモントレーパークで育ったフレッドさんの両親は共に帰米二世。つまり彼自身は三世だが、親が帰米であることが彼の日本語力の基盤だ。さらに、日系アメリカ人のために創設されたカトリックスクールに、そして週末は日本語学校に通ったことで日系人に囲まれて彼は育った。

日系アメリカ人のための学校に通った頃のフレッドさん(最後列左から4人目)    

そんなフレッドさんがアイデンティティークライシスに襲われたのは、ダウンタウン近くにあるロヨラ高校に進学した時。周囲が突然、白人だらけの社会になり、心が錯綜した彼は「白人のように振る舞うべきではないか」と思うようになった。フレッドさんは、自嘲気味に「当時の私はバナナ(皮が黄色く中身が白い)でしたね」と語る。

メンターとの出会い

しかし、その後、大きな転機が訪れる。前出のトリシア・トヨタさんと二世週祭で出会ったのだ。「10代の頃、KNBCのニュースにトリシアが登場するようになると、彼女のニュースを熱心に視聴するようになりました。そして、二世週祭のゲストだった彼女を追いかけて、勇気を出して『僕はジャーナリストになりたいんです』と、声をかけサインを求めたのです。すると彼女はテレビ局を案内してくれると言ってくれ、実際に私一人のために案内役を買って出てくれました」。

フレッドさんは3歳の頃にケネディ大統領暗殺事件の報道に触れてから、ニュースに関心を持つようになり、10代の頃は「報道オタク」のようになっていたのだと言う。日系アメリカ人のジャーナリストとしてパイオニア的存在だったトリシアさんにテレビ局を案内された後、まだ数が少なかった日系人ジャーナリストになるように背中を押された。しかも、トリシアさんは単に日系アメリカ人としてだけではなく、「アジア系アメリカ人である意識」を持つようにアドバイスした。

1970年代当時、アメリカではまだアジア系のプレゼンスは弱かった。そこで、アジア系全体で力を合わせて、アメリカを変革するムーブメントを起こすべきだという言葉で、トリシアさんはまだ少年だったフレッドさんの心を揺さぶったのだ。

その後、フレッドさんはジャーナリストという目標を胸に、ニューヨークのコロンビア大学に進学した。そこで日本語や日本文化のクラスを取り、世界的な日本文学研究の権威、ドナルド・キーン教授にも学んだ。

「日本について深く学ぶことで、日本を誇りに思うようになり、高校時代に直面したアイデンティティークライシスを乗り越えることができました。のちにドナルド(キーン)とは親しい友人になりました。私に大きく影響を与えたメンターは誰かと聞かれたら、それはトリシア・トヨタであり、ドナルド・キーンだと答えます」。

日本人と日系人との距離

彼のジャーナリスト志望の原点は「正義の追求」だ。戦時中の日系人の収容所送りに対する弁済と救済に興味を持った彼は、あらゆる文献を読み、その不平等をペンの力で伝えたいと望んだ。大学時代には各地で開催されていたCWRC(戦時における民間人の収容所への転住と抑留に関する委員会)のニューヨークでの公聴会を取材し、原稿を全米各地の日系アメリカ人向けの新聞社に送った。原稿を送った全ての新聞社がその記事を掲載してくれた。

大学院を修了後はアソシエイテッドプレス、『フォーチュン』を経て、NHKに転職して日本に移った。そこではビジネスで成功した日系アメリカ人を取り上げた番組を制作し、アジアンアメリカン・ジャーナリスト・アソシエーションで賞を獲った。その後、短期間でのシアトル勤務を経てCNNに転職、さらにロイターテレビジョンで2021年までアンカーを務めた後に米日カウンシルから声がかかり、ジャーナリスト業界から転身した。

米日カウンシルの活動目標は、アメリカと日本における市民レベルでの連携だ。東日本大震災後の「TOMODACHIイニシアチブ」はよく知られている同団体による取り組みである。

なぜ米日カウンシルで働くことに決めたのかを聞くと、彼は次のように答えた。「日系アメリカ人社会をリードする存在として、過去にはダニエル・イノウエやノーマン・ミネタが活躍しました。私たちは次のリーダーを社会に送り出さなければいけません。そして、日系アメリカ人が日本人とつながることで、日本の役にも立ちたいと考えています」。

そして私は、フレッドさんが米日カウンシルでの活動を通じて、近いようで意外と遠い日本人と日系アメリカ人の距離を縮めてくれることを強く願っている。

 

© 2023 Keiko Fukuda

Fred Katayama journalists U.S.-Japan Council