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日系(ニッケイ)—をめぐって

第25回 カメラを手にアメリカで生きるフォトジャーナリスト、諏訪徹の回想

堀江謙一や小田実に感化され

海洋冒険家の堀江謙一さん(84)が、このほど米クルージング・クラブ・オブ・アメリカ(CCA)から海洋冒険の功績を讃えられ、最高栄誉賞である「ブルーウォーターメダル」を受賞した。堀江さんは、昨年ヨットの単独無寄港での太平洋横断に世界最高齢で成功したほかこれまで多くの海洋冒険に挑戦してきた。

なにより堀江さんが世の中の注目を集めたのは、1962年に兵庫県の西宮港からサンフランシスコまでひとりで航海するという偉業を達成したからだった。その航海を著した『太平洋独りぼっち』は話題を呼び、当時の日本の若者の冒険心をかきたてた。そんな多くの若者のひとりに、のちにアメリカでフォトジャーナリストとして活躍する諏訪徹(すわ・あきら=Akira Suwa)さんがいた。

アメリカで暮らす諏訪さんが、昨年フォトジャーナリストとしての半生を振り返った『生きた見た撮った、アメリカを世界を — アキラ・スワ回想録』を出版した。半生の記録は英語でまとめられていたが、日本での小学校時代の同級生である新田聡子さんが日本語に訳した。

私は、拙著『大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち』(旬報社、2015年)を、まとめる過程で諏訪さんのことを知った。この「男たち」の中心人物で、日本からの移民である森上助次(ジョージ・モリカミ)について、1970年代に貴重な写真を撮っていたのが諏訪さんで、私はその写真を拙著の中で使わせていただいた。森上助次は、一代で多くの土地を所有するまでになり、亡くなる前に地元に土地を寄付、それがもとで南フロリダに日本文化を伝える「モリカミ・ミュージアム」が誕生した。

森上を撮影当時、諏訪さんは、フロリダのパームビーチ・ポスト紙のカメラマンだったのだが、この時代に日本人のカメラマンがアメリカ、それもフロリダの新聞社で働いていたというのは驚きだった。どうして、諏訪さんは日本人がほとんどいないフロリダでカメラマンをしていたのだろうか。 

2012年、私はフィラデルフィアで諏訪さんにお会いして話を聞き、その理由と諏訪さんのユニークかつチャレンジ精神に満ちた半生を知った。

『回想録』には、諏訪さんのフォトジャーナリストとしての道のりが記されている。夢と憧れをもってアメリカに渡った青年が、どうやって異国で仕事を得て、写真の世界で成功し、アメリカに根づいたのかといった記録は、ダイナミックなフォトジャーナリズムの世界を知る上で、また、アメリカ社会、文化を背景にしたサクセスストーリーとしても興味深いものがある。

以下、『回想録』に沿って、訳者の新田さんのあとがきも参考にして、諏訪さんの歩いた道と、カメラに収めた人や物事をたどってみる。


最初はガーデニングの仕事で

諏訪さんは、大阪市立太子橋小学校をはじめ高校まで大阪で学び、1966年東京農大を卒業するが、在学中に2度渡米した。まず1962年にカリフォルニアへ農業実習に行き、その2年後には大学を1年休学し、ニューヨークで開かれた世界博覧会の日本館レストランで働くなどした。

この時、ブロードウェイのショーをみたりビート族のジャズカフェに行ったり、ニューイングランドやメキシコを旅したことで、帰国してからも卒業後はアメリカで働きたいと思うようになる。また同じころ、堀江謙一の偉業を知り、さらに小田実の『なんでも見てやろう』を読み、海外への冒険心をかきたてられた。

すると、父親の知人のアメリカ人が、フロリダのタンパに日本人庭師を求めていることを教えてくれ、さっそく諏訪さんはタンパで個人が経営するガーデンセンターで働くことになった。しかし1年近く経った頃、ガーデンセンターが経営不振に陥り、諏訪さんは仕事をやめなければならないことになった。


新聞社で働く

そこに運よく次の仕事の声がかかった。写真が趣味で仕事のあとに近隣の風景や隣人などの写真を撮っていた諏訪さんは、あるとき写真スタジオを経営する人と出会い、その腕を見込まれ働くことに。そこで仕事を覚える過程で、撮影した写真が新聞にも掲載されるようにもなり、今度は地元タンパトリビューン紙に雇われることになった。

こうして28歳からフォトジャーナリストの道を歩むことになった諏訪さんは、「他のスタッフの2倍真剣に、2倍多くの仕事をし」、同僚や先輩などから学びながら、さらにキャリアを積み写真コンテストでも入賞するようになる。すると同じフロリダのメキシコ湾岸のセント・ピーターズバーグ・タイムズ紙から「うちで仕事をしてみないか」と誘われる。

ベトナム戦争反対を訴える、フロリダ州タンパ

1972年のことだが、当時同紙は、全米でも珍しくカラー写真を載せている新聞社で、諏訪さんはこの申し出を受けた。このころすでに諏訪さんは、アメリカ人女性と結婚し長女をもうけた。

仕事面ではディズニーワールドの開会式やアポロ17号の打ち上げなど大ニュースを取材。写真コンテストでも1973年にフロリダ大学ジャーナリズム・コミュニケーション学部主催の新聞写真優秀賞を受賞するなどし、これがきっかけで今度は、太平洋岸にあるパーム・ビーチ・ポスト紙の写真部長から誘われ、同紙に移った。

ここでは、写真を組み合わせてストーリーをつくるなど斬新な紙面づくりをしていた。このとき、森上助次の存在を知り、約8ヵ月をかけて彼を撮影したのだった。

このほかさまざまな分野にわたり、大きく紙面を飾る取材をする。スポーツでは、ゴルフのジャック・ニクラウスやローラ・ボー、プロボクサーのモハメド・アリなど。またショービジネスの世界では、晩年のエルビス・プレスリーをとらえた。

エルビス・プレスリー、フロリダ州パームビーチ・ポスト紙 


世界を駆け回る取材

1976年には、東部ペンシルべニア州フィラデルフィアの伝統ある新聞、フィラデルフィア・インクワイアラーから誘いを受け、翌年フロリダを出てフィラデルフィアへ移った。以後、37年に渡って諏訪さんは、同紙の写真部のスタッフとして経験を積む。

『回想録』では、この間に体験した取材のいくつかが紹介されている。国内では、カーター大統領やローマ法王ヨハネ・パウロ2世や作家のジェームズ・ミッチェナーなどの人物取材だ。そのほかは多くが国際的なテーマであり、まさにフィラデルフィアを拠点に世界を飛び回るという、フォトジャーナリストとして王道を行くような仕事だ。しかし、それは時に危険で極度の緊張を強いられるものだった。

パブロ・エスコバルについて取材中の諏訪さん、コロンビア・ボゴタ

リビアとカダフィ大佐(1986年)、中東の湾岸戦争(1991年)、中国の現状(1995年)、コロンビアの麻薬(2000年)といったタフな仕事や、変わったところではアメリカの記者として、トロリーカー(車両)を作る日本の企業とそこで働く日本人を取材している。

こうした国(現場)の様子や取材の内容、また、そのときの思いなどが具体的に記されている。時に恐れ、苦しみ、涙を流すこともあったが、これらのテーマのなかで諏訪さんの強い思い入れが感じられるのが、「アメラジアン」と呼ばれる、ベトナム戦争時に駐留していたアメリカ兵と現地の女性との間に生まれた子どもたちの取材(1988年)だ。

諏訪さんにもアメリカ人女性との間に二人の娘がいることもあり、人種の異なる両親を持つ子どもに寄せる思いは深かった。

ベトナムでアメリカ人、特に黒人との間に生まれた子どもたちがおかれた苦境を諏訪さんは肌で感じ、取材した。3週間に渡る取材はひとりだったので、写真と同時に記事も書いた。その後、取材したベトナムの若者がアメリカで新たな生活の場を得たという知らせを聞くことがあった諏訪さんは、微力ながらフォトジャーナリズムの力を感じたという。

諏訪さんは現役を退いたのち、ニュージャージーの自宅で暮らしている。諏訪さんの撮影した写真も掲載されている96ページの本書は、小学校の同級生に読んでもらおうという意図で自費出版された。しかし、訳者の新田さんは「何かの拍子にこのささやかな冊子が若い人の目に留まり、堀江謙一氏や小田実氏の書きものが著者若き日の肩を押したように、広い世界に出て実のある仕事をつかむきっかけになれば著者にも望外の喜びとなるであろう」と、あとがきに書いている。

(敬称一部略)

※写真は全て諏訪さんの撮影です。

 

© 2023 Ryusuke Kawai

Akira Suwa photo journalists

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。