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藤原義江と日系アメリカ人 ― その2:オリンピック競技会のある一日

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ニューヨーク・トリビューン紙、1923年1月14日

1932年以降、藤原義江は日本を主な居住地とした。この頃、藤原歌劇団を創立した。その後、同劇団は藤原の芸術と事業活動の中心として存続した。藤原の後日談では、オペラ鑑賞にお金を出す人がまだ少なかった当時の日本の状況により、同劇団の初期には年間2万4千ドルもの損失をこうむっていた、とのことである。借金を埋め合わせるため、藤原は外部の歌の仕事を請けなくてはならなかった。

一方、日本のアジアでの軍事的増強と拡張が進むなか、藤原は日本を代表する半ば公的な文化大使として活動するようになった。藤原の日本の軍事的政策に対する支援がどこまで本心からであったか、またどれほど楽観的であったかは、当時から1世紀も経った今となっては、判断が難しい。同じように愛国心を燃やしていた画家の藤田[嗣治]と事情が似ているが、西洋文化を提唱してきた藤原は弱い立場に置かれていたかもしれない。(藤原に複数の民族の血が流れていることは何の免罪符にもならなかった)このことが藤原に愛国心を示さなくてはならないと感じさせたのかもしれない。

1932年、動機が何であれ、藤原は満州の奉天を訪れ関東軍(日本の占領軍)の軍人と会談した。その後、日本の満州での行動を擁護するために、公演の演目に日本兵の苦難と武勇を喧伝する「The Song of Asia1」、「Combatting Banditry and the Rule of Right2」の2曲を加えることを承諾した。(作曲は藤原自身なのか軍の関係者なのかは諸説ある)藤原はこの2曲の録音のために日本の統治下の韓国へ行き、その後、2本目の映画『叫ぶ亜細亜』の撮影のためにロケーション先である日本が占領する満州に戻った。同映画は1933年1月に公開された。藤原は宣伝にも力を入れ、日本国内と1933年の北米公演時にも舞台挨拶をおこなった。

1933年の全米公演後、アメリカへは3年間戻らなかった。これはおそらく藤原歌劇団の演出で多忙を極めていたからだと思われる。ある記事によると、藤原は1935年の終わりにイタリア行きを計画したが、イタリアのエチオピア侵攻により結局中止となった。

いずれにせよ、1935年中盤からの北米公演が急遽計画された。

いつものように、最初は歌うためにホノルルに立ち寄り、その後アメリカ本土の太平洋岸へと進んだ。数日を過ごしたサンフランシスコでの最大の成果は地元の日本人会が後援し満員となったフェアモントホテルでの公演であった。ミュージカルアメリカ誌は「声量は少ないが表現力豊かな藤原の声質と歌唱には日本の美術品の美しい繊細さを感じた」と慎重ながらも好意を示した。

その後、藤原はロサンゼルスへと進み、ターミナル島からリトル東京の西本願寺まで様々な会場で独唱会をおこなった。藤原の演目は日本の作曲家、伊藤祐司と山田耕筰の曲やスカラッティ、シューベルト、プッチーニの「マノン・レスコー」といった曲で構成されていた。ミュージカルクリエ誌は「日本のテノール歌手藤原義江が6月4日に日系人組合教会で行ったコンサートには華々しい前宣伝はなかったにもかかわらず、ホールには溢れる同胞の男女がつめかけた。声楽に興味のある音楽愛好家には見る価値のある催しであった」と報じた。

この公演の成果の一つは藤原と新世代との親交ができたことであった。確かに、それまでも藤原は本土やハワイの日系人社会と長い付き合いをしてきた。一世の聴衆のために日本の歌を歌い、日系の新聞社やクラブが主催する公演に出演し、日系社会の団体のために慈善コンサートを開いてきた。しかし、1936年の公演ツアーでは、特に二世に働きかけた。新世界新聞社が主催したベイエリアでの一連の公演の後、同新聞社の職員がジャパンタウンのYWCAでレセプションを開催した。そこで藤原は地元の二世たちと出会い、二世の音楽家と日本でのキャリアについて語り合った。ロサンゼルスでは羅府新報の編集室を訪問した。

1936年6月、藤原は日系アメリカ人市民リーグへの基金を募るためにシアトルのワシントンホールでの公演をおこなった。共演者として地元の二世の音楽家であるハンナ・コサカ、カズ・ナカムラ、サチコ・オノを招いた。藤原はラジオ番組「日系アメリカ人ニュース」のインタビューで「真のアメリカ市民として、日系二世が自国の生活の中で認められる場所を非常に現実的な方法で自ら築き上げようとしていることを大変うれしく思います。日系アメリカ人市民リーグは意義のある団体となりつつあり、日系人とアメリカ人の更なる相互理解の促進という大義に貢献しています」と二世を賞賛した。翌月、藤原はソルトレイクシティーの第一会衆派教会が開催するコンサートでオペラのアリアと日本の民謡を歌った。

北米公演ツアーのあと、羅府新報の編集者はその年の夏に藤原が参加したオリンピックについての記事を藤原に依頼した。皮肉なことに藤原は、自分がオリンピック開催前に選手村で歌ったことについては書かなかった。そのコンサートに関する記事を書いたのは新世界紙のタモツ・ムラヤマであり、その記事はその直後に不運に見舞われることになる飛行船ハイデンブルグ号に乗せられて配信された。

1936年のベルリン大会(今やアドルフ・ヒトラーのオリンピックとして悪名高いが)で藤原は羅府新報の特派員として10日間にわたり、徒競走、棒高跳び、競泳などの様子や選手のコメントなど20本の記事を外電で送った。藤原の英語は流暢で、スポーツの俗語も数多く盛り込まれていた。藤原の記事はアメリカの読者に向けて書かれていたが、そのなかで注目されたのはアフリカ系アメリカ人の人気陸上選手であるジェシー・オーエン(藤原は「話題沸騰中の褐色の走り屋」と表した)を取り上げた記事であったが、面白いことに、藤原がレポートの中心に置いていたのは日本人選手であった。

オーエンが走幅跳びで世界新記録を樹立し、優勝したにもかかわらず、藤原の記事は3位に終わった日本の田島直人を中心にして「(オーエンのジャンプは)競技場から拍手喝采を呼んだが、日本人選手の健闘も大観衆を驚かせ、日本人の応援団は狂気乱舞した」と報じた。

1936年のオリンピックでのジェシー・オーエン

藤原はマラソン競技で韓国人走者ソン・ギジョンが驚異の優勝を果たしたことについての記事も書いた。ソンは孫基禎の名前で日本人選手として闘った。

1936年のオリンピックでのソン・ギジョン

「沿道に群がった何十万人もの観衆の大歓声のなか、22歳の韓国系日本人選手はその俊足で栄冠を勝ち取ったが、ゴールしたあともまだ走れる余力があった」この藤原の記事に対して羅府新報の記者は、「日本選手協会のサトウ・マサオに引き継がれた藤原のスクープは、スピーカーを通して競技場の観衆に報じられた」と誇らしく伝えた。

この頃藤原は、NBCネットワークと一連のラジオ出演契約をした。タモツ・マルヤマはヨーロッパ公演を終えた藤原がニューヨークを拠点にしようとしていると報じた。(ジュネーブでの公演の演目にはプッチーニのオペラ「蝶々夫人」も含まれていた)しかし、わずか1度の公演のあと、不可解な病気により活動ができなくなり、ニューヨークのプラザホテルのスイートルームに伏して一か月を過ごした。じきに回復した藤原は、2月にバルビゾンプラザでリサイタルをおこなった。

藤原はこの時期に、スウィングジャズのピアニスト兼バンドリーダーであるヴィンセント・ロペスを通じて、活動の新しい方向性を見いだした。1936年、初めてロペスのラジオ番組に出演した。藤原の歌う日本の音楽に強く惹かれたロペスは、番組の本番中にその音楽をジャズにアレンジして演奏しだした。この共演は、1937年3月と4月に藤原とヴィンセント・ロペス・オーケストラが8曲を合同で録音するという画期的な実を結んだ。4月11日、藤原とロペスはCBSスタジオから日本の歌を届ける番組で共演した。

同じ頃、藤原は『メロディ・オブ・ジャパン』と題された音楽旅行記の短編映画で歌い、ナレーションもおこなった。その年の中頃には、シアトルの市民オペラでヴェルディの「椿姫」のアルフレッド役で客演した。その後、ホノルルへと向かい、一連の公演をおこない日本へ戻った。(日本での滞在中、藤原は侯爵の近衛文麿とゴルフに興じたと日本経済新聞は驚きをもって報じた)

その夏、シンガポールのビクトリア記念会館に集まった数百人の観客にぞくぞくするような歌声を披露したあと、藤原は1937年の秋、南米に船で渡り、ブエノスアイレスとサンパウロでコンサートをおこなった。ブラジルの日伯新聞は「洗練されたテノール歌手、藤原義江は文化芸術会館でリサイタルをおこない、大成功を収めた。一昨日は市民劇場にも初出演し、芸術的才能を証明し、評価を更に高めた」と報じた。

歴史研究家のデール・オルセンは南米における藤原の役割を「日本の文化大使」と表す。日本の中国への侵攻のさなか、藤原は日本の文化的活力や友好的な国民性をその歌で示した。亜爾然丁時報は藤原の才能だけでなく、アルゼンチン国民に日本の音楽を紹介したことを賞賛した。オルソンは引用する―「このテノール歌手、藤原義江によるこの公演は、技巧的な声の使い方や明瞭な発声といった優れた資質と芸術的な天性がもたらした音楽的な成功だけではなく(中略)日本の音楽をアレゼンチンに知らしめるために必要なものであった」

1938年5月、藤原はロンドンを訪れ、日本大使館で開催されたレセプションで歌った。同じ週、パリに立ち寄り、日仏協会から授与された賞のレセプション(オテル・ジョルジュサンクで開催)でも歌った。その直後、近衛秀麿(侯爵近衛文麿の弟)の指揮によるベルリン交響楽団の演奏で歌を披露した。翌年、アルゼンチンとブラジルで2度目の公演ツアーをおこなった。1931年10月1日、日本に帰国する途中でロサンゼルスに寄り、リトル東京の天理教会館でのコンサートで歌った。

リトル東京でのコンサートは、藤原のひとつの時代の終わりを告げるものとなった。この頃、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まり、ヨーロッパ大陸への扉は閉ざされた。日本に戻ると藤原は(芸術的、政治的な動機に駆られて)日本とアメリカの歴史に関するミュージカル企画を支援した。山田耕筰による日本語のオペラ「夜明け」は日本とアメリカの国交の始まりについての物語であった。(ステファン・ソンドハイムのミュージカル「太平洋序曲」といった類の先駆的な作品といえる)このオペラは1941年1月に東京で初上演された。藤原は主役のアメリカ人領事タウンジェント・ハリス役を演じた。

その後の数年は藤原にとって苦難の時代となった。太平洋戦争が始まると日本の愛国主義者たちはオペラを西洋の退廃的な文化だと非難した。戦時中、藤原の劇団は活動を中止させられた。戦後、藤原は劇団の再建に腐心し、オペラを再び日本の観衆に届けようとした。

1952年1月、藤原はコンサートツアーのために北米に戻った。戦前と同じように、ハワイを皮切りに、まずホノルルのマッキンレー高校で歌った。その後、ニューヨーク、トロント、シカゴ、デンバーへ進み各地で歌った。藤原は自分の劇団の歌手とメトロポリタンオペラの歌手との交換留学を企画し実現を願った。この計画は実を結ばなかったが、アメリカ大使館の助力により藤原歌劇団を渡米させ、北米各地の劇場での公演が可能になった。同劇団の看板の演目は2か国語版の「蝶々夫人」であった。藤原はピンカートン役を、山口和子が蝶々の役を演じた。

1963年、藤原はステージからの引退を表明した。1976年に肝機能不全により死亡した。日本では藤原に一定の知名度が残っている。藤原歌劇団は今も日本で最も著名なオペラカンパニーであり、現在でも公演を続けている。下関には藤原義江記念館も存在する。1993年、作家の古川薫は藤原義江の人生を題材にした「漂流者のアリア」を出版した。しかし、かつて藤原がその名をおおいに馳せたヨーロッパと北米での栄光はやや輝きを失っている。

 

訳注:

1.「亜細亜行進曲」と思われる

2.「討匪行」(とうひこう)ではないかと思われる。

 

© 2023 Greg Robinson

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