私は美しい。
パパから「ノアがこの世で一番可愛いよ」と言われて育ったから、何の迷いもなく自身が美しいのだと、物心ついた頃から知っていた。
カフェテリアで配膳される量が人よりも多かったり、話したこともない人間から告白されたり、連絡先を渡されたり。
赤の他人から与えられる好意の積み重ねがパパの言葉を裏付け、いつしか私の自信となった。
「ねぇ、パパは自分がかっこいいと気付いたのはいつ?」
右手に持ったマグカップから、淹れたてのコーヒーが湯気を立てている。シカゴで開催される学会に参加する為、早朝に家を出たママを見送り一息ついていたのだろう。
もしママが今この場に居たとしたらこんな質問はしなかった。
男女差別の激しい日本を飛び出し、海を渡ってアメリカで教授になった度胸も勇気も間違いなく尊敬に値するけれど、事実としてママは美しくはない。一六〇センチに届かない身長と、適当に括ったポニーテール。化粧気のない平らな顔と地味な洋服。勉強しなさいと叱る声は低くて男みたい。
「多分ノアと同じくらいだよ」
口角をきゅっと釣り上げる、パパの笑い方が大好き。若い頃モデルをしていたパパは、年を取った今でも十分にかっこいい。すらりと伸びた手足と輝く金髪に、晴れた日の空みたいに透き通った碧。優しくて人懐っこい性格。パパと出会った人はほぼ全員、パパの事が好きになる。
私のすべてはパパ譲りで、ママの欠片は何処にも見当たらない。そのことに、深い安堵と仄暗い優越感を覚えたのはいつだったかもう思い出せない。
「パパだったらスーパーモデルと結婚だってできたのに」
言外にママは美しくないと伝えた私の意図に、パパは正しく気付いてくれた。静かにマグカップをテーブルに置いてから、真っ直ぐこちらを見据えて言う。
「ママよりも魅力的な人はいないから」
その言葉が本心だと見抜けないほど、私はもう、子供ではなかった。
ずっと、パパがママを見つめる眼差しの温かさに混じる「何か」の正体を探っていた。その「何か」を一人では見つけられないと理解した私は、一個上のアレックスと付き合うことにした。彼の震えた声とほのかに赤くなった目尻がそれを教えてくれると思ったのだ。
付き合って一ヶ月記念日の放課後、彼の部屋でセックスをした。
冷房はちゃんと効いているはずなのに、逞しい上半身から私の胸にぽたりと汗が落ちてくる。太い首に回した指先から伝わる火傷しそうな熱さと、歪んだ眉毛の下で濡れた薄緑の瞳が、彼の興奮を物語っていた。生理現象で出た声が、目の前の男を正しく煽るのだと観察できるくらい冷めた私とは対照的に。
「俺を見てよ」
殆ど泣いているような顔で、彼が私の視線を求めたのは事が終わってからだった。
「みてるよ」
本当で嘘でもあった。私と彼が意味するそれは余りに違うものだったから。
部屋に充満する沈黙に居心地が悪くなり、ベッドの下で散らばっていた服を拾い素早く身に着け部屋を出た。寝たふりの背中が微かに震えていたのには気付かないふりをした。
背が高くてサーフィンが上手くて、顔だって悪くなかった。香水や服のセンスがいい所も好感が持てた。キスもセックスだってしたのに、一度も彼を知りたいと思えなかった。つまるところ、彼は私に恋を教えることは出来なかったのだ。
夏休み最後の週末、午後三時。リトル東京は沢山の人で溢れかえっている。
今すれ違った男の子、この前インスタで見たnikeの新作履いてた。あの女の人のハイウエストデニムはroujeのかな。ブルネットに似合っててお洒落。
ちょっと前までいかにもナードですって感じの人達ばっかりだったのに。最近のアニメブームは、それまでアジアの文化なんて気にもくれなかった層にも届いているのだとノアは実感した。
古ぼけた日本食レストランの前を通り過ぎる際、店頭に飾られたうどんの模型に目が留まった。年季が入り、汚く変色したそれをなぜ捨てないのかと、ノアはいつも不思議に思う。すぐ隣のビルには、「日本語教室開催中」と書かれた真新しい看板が立っている。ここに無理矢理連れてこられた時の記憶が浮かんで、ノアは眉を顰めた。漢字を覚えることが苦手な私にとって、日本語を勉強することはストレスでしかなく、散々嫌がったのにママは絶対に辞めさせてくれなかった。
「どれだけ嫌がっても、日本はあなたのルーツだから」
泣きじゃくる私に、ママは繰り返しそう言い聞かせた。一度も行った事がない国を、自分のルーツだと認識しろなんて無茶だと反論しようとしたけど、ママのあまりの剣幕に気圧されて叶わなかった。それも先月で終わった。クラスの対象年齢は十七才までだからだ。
手元に残ったのはある程度の日本語能力と、ダオさんの連絡先だけ。
赤い提灯が飾られた広場の隅に、目当てのタピオカ店はある。台湾発であるその店は、粉ではなく茶葉を使った本格的なミルクティーが看板商品で、流行の移り変わりが激しいロサンゼルスでも根強い人気を誇っている。のろのろと空を切るように手招いている招き猫を載せたカウンターで、ミルクティーを二つ注文する。丁度客足が途絶えたタイミングだったから、ものの三分も経たずに商品を受け取ることが出来た。氷がごろごろと入っているカップは、強い日差しで火照った両手を気持ちよく冷やす。ベンチに腰かけスマホを取り出したところで、背後から私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「ノアちゃん!久しぶりね」
彼女の片言の日本語を鼓膜が拾うとき、いつも目頭がじわりと温かくなる。
「お久しぶりです」
嬉しさに思わず大きい声が出た。
「元気だった?」
「はい、ダオさんはどう?」
「元気、元気よ」
「ミルクティー買ったから飲みましょう」
飲みましょう、なんて。大人なのだと思われたい一心で、慣れない敬語を使う自分を内心で恥じる。
「えっ、私のも?」
「もちろん!ダオさんが好きなやつだよ」
「ありがと、ノアちゃん!」
抱きしめられた瞬間、ダオさんの長い髪から桜の香りがふわりと香って、胸がぎゅっと詰まった。まばたきするよりも早く、息を吸うよりも簡単に、ダオさんは私の心を掴む。
クラスが始まるまでの時間をどう潰そうかと悩んでいた去年の春、私はダオさんと知り合った。
「ハーフ?」
熱湯を浴びせられたかのような衝撃だった。他人に『日本語』で話しかけられたのは初めてだったから。振り向いた目線の先、西海岸特有の乾いた太陽が、灰色の清掃服に身を包んだ彼女を照らしていた。
「うん」
そう答えた私にダオさんは、異国で友達を見つけたようにほっとして、長い睫毛に縁取られた目尻を柔く下げた。
「やぱり!わたしも。母がベトナムで、父は日本ジンよ。ね、」
「私がハーフってなんで分かったの?」
口から勝手に零れた疑問が彼女の言葉を遮った。ほとんど義務に近い衝動だった。それまで日本人の血が入っていると「見抜かれた」経験がなかったから、どうしても理由を知りたいと思ったのだ。
「わかったから」
誇らしげな様子で彼女はそう答えた。
説明が出来る程の日本語力がないのか、そもそも説明する気がないのか。
「わたし、ダオ。あなたは?」
「ノア」
茶色に染めたバサバサの髪に丸くて低い鼻、そしてカラスのように真っ黒な瞳。
パパに似ていない人を綺麗だと思ったのも、それが初めてだった。
会うのはいつもこのベンチだった。私から、授業終わりに日本語を教えてあげると持ち掛けた。ダオさんの収入では生活するのに精一杯で、日本語教室の月謝が払えないと知ったから。
本当の理由は、自分の勉強にもなるしなんて嘘を吐くほどダオさんの傍に居たかったからだ。この感情はおそらく恋だと勘づいていた。だってこんなにも息苦しい。いつもダオさんの声を聞きたくて、何をしているのか気になって落ち着かなくて。
リトル東京に溢れる日本語を掬ってダオさんと共有することは、それまで生きてきた年月の全てになった。
けれど、この想いを伝えようなんて考えは浮かばなかった。もし受け入れてもらえなかったら、私は二度と立ち上がれないくらい傷ついてしまうと理解していたから。ただひたすらに怖かった。そして、その恐怖を乗り越えられる程大人でも、傍に居たいと願う気持ちに顔を背けられる程子供でもなかった。
「日本ジンと結婚する」
タイミングを見計らっていたのだろう。互いの近況報告がひと段落してからしたタイミングを見計らってしてから、ぽつりと落ちたダオさんの言葉に、手に持ったカップの底でタピオカが揺れた。
「どんな人なの」
動揺を悟られないよう、まるで何でもないかのように続きを促した。祝福の言葉が出てこない時点で動揺しているのは明らかなのに、
「この近くのカイシャで働いてる人。大きなカイシャの」
大きな、カイシャ。
ダオさんは、それから恥じたように目を伏せた。コッパー色のアイシャドウが、一重瞼の上で濡れたように光る。
その仕草が、男との関係性を明確に物語っていた。
ああ、そうだったんだ。ここ数ヶ月、ダオさんの服装や持ち物の趣味が変化していたのは。
「お金貰っているの?」
感情がすっぽりと抜け落ちた声は、紛れもなく私が発した物だった。
「そう」
口を微かに開けて、噤んで。そしてまた開いたダオさんは、震える声で続けた。
「頑張ってアメリカ来た。なのに、お金安い。汚い。好きなもの買えない。でも、タケはお金くれる。かわいいって言ってくれる。大きなカイシャで働いてる。だから、」
「ダオさんは悪くない」
あの時とはまるで違う強い意思を掲げて、私はダオさんの言葉を遮った。
「絶対に、悪くない」
目の前の黒い瞳が音もたてずに澄んでいく。
「ノアちゃん」
「いいんだよ」
私が教えた日本語で、ずっと聞いていたいあの声で、「タケ」と言葉を交わすダオさんの姿を想像すると、喉奥から熱い何かが込み上げてきた。
「何でノアちゃん泣くの」
細い腕が、優しく私の身体に巻き付いた。偽物の桜の香りが顔の隣で頼りなく揺れる。
あなたが好きだからだよ。好きで好きで仕方ないからだよ。
飲み込んだ恋が痛んで、吐き出しそうになる衝動を必死に堪える。
「おめでとう。幸せになってね」
笑顔と日本語のクラスで習った例文を無理矢理引っ張り出した私は、「タケ」が死ねばいいと本気で思った。紛れもない殺意だった。金を払うことでしか関係性を築けない男なんて軽蔑する。どうせ不細工で醜く太っていて、背だって低いのに何故か偉そうな日本の政治家みたいな奴でしょ。私の方が可愛くて綺麗で美しいのに。ダオさんのこと、誰よりも好きなのに。でもそれでは駄目。ダオさんに欲しがられなくちゃ意味がない。でも結婚したダオさんが、私を恋人として欲しがってくれるなんて奇跡、きっとこの先も起こらない。
「ありがとう」
お気に入りのブラウスにダオさん初恋の人が流した涙が滲んで、そしてそれからすぐに消えた。
ダオさんと別れパパの迎えを待つ間、私は私の中のダオさんをなぞって傷つくことにした。どうしても必要な作業だった。
日本語をたどたどしく読み上げる、人工的なピンクに彩られた唇。濡れたビー玉みたいにつやつやした瞳。いつまでも聞いていたくなる、少し高い声。雨が降った後の湿った地面のような、滑らかな手。の感触。少し左に。僅かに左へ寄っている前歯。長い睫毛から落ちた影。割り箸を滑らかに動かす、薄紫色に塗られた指先。
ダオさんが、あんなに嫌いだった日本語が、私の一部となっていく。
掌で震えたスマホがパパからの着信を知らせた。俯いていた顔を上げる。いまだ潤む視界をそのままに、提灯から漏れる光で赤く染まった広場をノアは歩き出した。
俳優の安生めぐみさんが六几なおさんの作品「教えて」を朗読。2022年5月26日開催の第9回イマジンリトル東京ショートストーリーコンテスト・バーチャル授賞式にて。リトル東京歴史協会主催、全米日系人博物館ディスカバーニッケイプロジェクト協力。
* このストーリーは、リトル東京歴史協会による第9回ショートストーリーコンテストの日本語部門での最優秀賞作品です。
© 2022 Nao Mutsuki