―10年前―
これは、ぼくだけのひみつ。いや、ぼくときみだけのひみつなんだ。
すぷりんぐすとりーとには、かべがある。みぎとひだりでわかれて、みんなくらしている。ぼくはみぎがわ。にほんじんと『にっけい』ってよばれているひとたちがすんでいるんだ。ひだりは、ぼくたちとはちがうひとたちがすんでいる。いったことはない。おとうさんやおかあさん、まちのひとからきいたはなしだ。ただ、とてもこわくてきたないところだから、いってはだめだといわれた。
ぼくはこのかべがすきだ。だって、おもしろいえやもじが、たくさんかいている。まだ5さいだから、ひらがながすこしよめて、20までかぞえることができるけど、かべはかんじやしらないきごうばかりだから、よめない。いつかよんでみたいな。
ゆきがふりそうにさむいひ、いつものようにかべをみていたら、ちいさなあながあった。ゆびが、4ほんはいりそうなくらいのあなだ。ぼくはのぞいてみた。そしたら、おんなのこがみえた。ぼくはおもわず、「ねえ」といってしまった。そのあとで、すごくこわくなった。だって、おとうさんたちのこえをおもいだしたから。ぼくがふるえていると、
「はろー」
はじめてきくことばが、かえってきた。
「えっ?」
「はろー、コンニチハ」
「こ、こんにちは」
おんなのこは、にこりとわらった。そのとき、ぱちんとはじけるおとがした。
「あっ」
おんなのことかみがほどけた。「どうしたの?」ときくと、きれたわごむをみせてくれた。おんなのこはないていた。きれたわごむで、かみをむすぼうとしていた。ぼくはたすけたくなった。
「ちょっと、まってて!」
「?」
いえにむかって、はしった。しろいいきで、まえがよくみえない。はしってはしって、のどがからからになった。ただ、たすけたかった。いえにつき、おかあさんのしろいはながついたかみごむをにぎりしめて、またかべにむかってはしった。
かおのあせをてでふいて、あなをのぞいた。そしたら、おんなのこがいた!みらくるだ!でも、まだないていた。
「ねえ。ぼくだよ」
おんなのこがあなをのぞいてきた。
「これ、あげる」
はなのかみごむを、あなにとおす。おんなのこはふしぎそうにしていたから、ぼくはかみをむすぶまねをした。すると、おんなのこはごむでかみをむすび、できると、えがおでぼくをみた。おかあさんにもわるいけど、しろいはなはおんなのこのほうが、よくにあっていた。
それからいちども、おんなのこにあうことはなかった。
* * * * *
隕石は、速く走る石だ。家にある古い漫画に書いてあった。僕はそれを信じて、通学中は石を蹴って歩いた。蹴った石が、突然火を噴いて、物凄い勢いで世界を周り、再び目の前に現れて……。
「おい、聞いてんのかよ?このビンボーラーメン屋!」
急に鞄で頭を叩かれたと同時に聞きなれた石井の嫌な声がした。耳を突き刺すように、折り重なる子分たちの笑い声。
「てめぇがここで暮らせるのは、俺たち日本人が、店に行ってやってるからなんだよ」
きつねみたいな顔をした小林が肩に手をかけてきた。
「お前より、石ころの方がマシだぜ。人様に迷惑かけてないんだからな」
「……」
「シカトすんじゃねえよ!」
たぬき顔の高橋が顔を除いてきた。ガムを噛む音に吐き気がした。
「ホント、お前豚骨くせぇな。豚煮た汁で金を稼ぐ人生なんて、俺はごめんだね」
悪口を一通り済ませると、奴らは笑いながら去っていった。これは、いじめに近いものだと思うけど、まだマシな方だ。世にあふれる映画や漫画、本に書かれていたり、ニュースで聞いたりするくいじめの内容に比べたら、屁でもない。でもだからと言って、僕の感情が波立たない訳ではない。やっぱり嫌なものは嫌だし、奴らを殺してやりたい気持ちになる。そんな時は、あの場所に行くようにしている。
かつて、東西を分断していた壁があった場所だ。富裕層の東地区の人口増加により、住宅地が不足した。そのため、壁を取り外し、西地区の土地を買い始めた。莫大な税金が投入され、西地区にいた日本人以外の有色人種、白人、黒人たちは喜んで土地を売り、新たな場所に旅立っていった。あと、20年したら、リトル東京は完全に日本人と日系人だけになるだろうと、予想されている。僕ら日系人が東地区に住居を許されたのは、日本人の矜持と地位を守るためだ。つまり、差別する対象が必要だから、いることを許されたのだ。今も見えない壁に苛まれる。
石を蹴りながら壁沿いを歩いていると、「なんで、石を蹴ってるの?」と話しかけられた。振り向くと、僕と同じ年くらいの少年と少し幼い女の子がいた。
「……隕石にするんだ」
「何を言ってるのか、よく分からないけど、君は天体に興味があるの?」
「別に、無いわけじゃないけど……」
「興味はあるんだな。本物の隕石見たくないか?」
「えっ!見れるの?」
「イエス!じゃあ、今夜25時に、ここに集合な。俺は、トム・ブラウン。こっちは妹のエリー」
「僕は、ジョージ・タナカ」
「OK、ジョー。またな」
* * * * *
僕は眠たい目をこすりながら家を抜け出し、待ち合わせ場所に向かった。もう、2人は来ていた。
「ごめん、待たせて」
「いいや、時間ぴったりだ。さすが、日系人だ」
「やめてくれよ。それより、隕石は?」
トムが空を指さす。目を凝らすと、無数の流れ星が!
「今夜は流星群が来る日なんだ。流星も隕石の親戚みたいなもんだ。速く走る石だ」
「君のあの漫画を読んだの?」
「もちろんさ!あれは世界で通用する名作だよ。だから、俺も宇宙に関することに興味があるんだ」
それから、僕らはいろいろな話をした。その間、エリーはニコニコと笑っているだけだった。
「ジョーは、家を継ぐのか?」
「そうだね。いずれ父さんや母さん達の面倒を見なきゃいけないな。トムはどうするの?」
「俺は16歳になったら、家を出なくちゃいけない。貧乏だし、両親もそうやって生きてきたから、働かなきゃいけない。勉強は好きじゃないから、高校へ行かなくてラッキーだけど、家を出た後、エリーが心配なんだ」
「なんで?」
「エリーは時々、ぼんやりとする時があるんだ。俺は、そんな時間も大切だと思うが、世界にはそれを忌み嫌う人が大勢いる。悲しい事に、家族さえも例外じゃない。だから、俺が傍にいて守ってきた。本当はエリーを連れて家を出たいけど、金がない。だから俺が金を貯めてエリーを迎えに行く日まで、友達として様子を見に行ってくれないか?」
「そんな大事な事、突然頼まれても困るよ。第一、君たちの事、何も知らないし、それに……」
「これから、知っていけばいいさ」
トムが優しく笑う。それはエリーにとてもよく似ていた。星が綺麗で、本当に降って来そうな夜。目に映る世界を、信じてみたくなった。
* * * * *
そして、トムは街を去った。見送りに行くと、彼は不安と希望が胸をくすぶっていたが、視線は光を捉えていた。
僕とエリーは東本願寺で遊ぶことが多かった。ここは観光客も多く、僕らの事を気に留める人間なんていなかったし、身体に染み付いた匂いを外なら気にしなくて良いからだ。特に何かをする訳でもなく、境内の隅に座り、風の匂いを嗅いだり、夕日に染まったりしていた。トムとは2回しか会っていないし、友達と呼べるほど、打ち解けたわけでもないのに、なぜエリーのことを気にかけているのか、自分でもよく分からなかった。行き場のない僕と同類だからなのか。
日に日に、エリーの指の皮が剥けて荒れていた事や、頬や足に赤い花が咲いてきた事を、見て見ぬふりをした。彼女は伸びてきた髪を輪ゴムで結んでいた。それに懐かしさを覚えつつ、あの子はどこで何をしているのか、思いを馳せていた。
しばらくすると、彼女の両親から「エリーは忙しい」と理由をつけられ、なかなか会うことができなくなった。嫌な予感は、ずっとくすぶっていた。でも、どうすることもできなかった。だって、僕は子どもだし、トムとの約束を守れば良いだけだから。
リトル東京に桜が咲いた。ひらひら舞う花びらのシャワーが綺麗な日、エリーと会った。僕は店の手伝いをして得た小遣いで、白い花がついた髪ゴムを買い、彼女にプレゼントした。不思議そうにそれを見ていた。僕は気に入らなかったらどうしよう、と不安になる。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「どうして、私に優しくしてくれるの?」
「あの日、星が降って来そうだったから。ただ、それだけだよ」
「よく分からないわ」
「分からなくていいし、意味なんて知らなくていいよ」
エリーはたどたどしい手つきで髪を結ぶ。結び終わると、花のような笑顔を僕に向けた。これが、僕らの最後の思い出だ。
そして、トムがこの街に戻ってくることはなかった。彼は家族から離脱した代償に、自由を手に入れた。僕は家族や土地、仕事の連鎖を断ち切れない代わりに、安定を得た。どちらが幸せなのか、今はまだ分からない。ただ、今もエリーの幸せだけは願ってやまない。もう、それしかできないから。
* * * * *
数年後、リトル東京は8割が日本人と日系人の街になる。未だに見えない壁は存在するが、人口増加に便乗して豚骨ラーメンのブームが到来した。家業が成功し、利益を株に投資し、資産を増やしていった。儲けた金で店舗展開をしていった。アメリカ全土に20店舗を開き、日本へ1店舗進出することにした。場所は豚骨ラーメンの本場福岡にした。
新店舗視察のため福岡に行き、昼間に仕事を終わらせ、夜の中洲を歩いてみた。もう3月だが、夜の風は冷たかった。屋台に客引き、ホストのような男たちの群れ、風俗店のギラギラした看板が、目に飛び込んでくる。22歳の頃、初めての日本旅行で観光した新宿歌舞伎町に似ていた。
夜風に桜の匂いがした。茶色の髪に白い花の髪ゴムを付けた女性が通り過ぎた。
僕は「まさか」と思い、振り返る。幻影は人込みに溶けて、見えなくなった。
* * * * *
空を見上げる。人口の光を吸収した鉛色の空。祈るようにしばらく見上げてみたが、星は降って来なかった。
* このストーリーは、リトル東京歴史協会による第9回ショートストーリーコンテストの日本語部門佳作作品です。
© 2022 Miyuki Kokubu