前回は1919年の『北米時事』の記事「一日一人人いろいろ」で紹介されたシアトルの日系社会で活躍した人達について紹介した。今回は、1901年に設置されたシアトル領事館に派遣された数人の領事について紹介する。
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シアトル在留日本人の支えとなったのが、領事の存在だった。第1回で1901年にシアトルに領事館が設置されたことをお伝えしたが、それ以降1941年までに13人の領事(領事代理等除く)が日本政府からシアトルに派遣された。シアトル領事館はワシントン州、モンタナ州、アラスカ、アイダホ州の一部を管轄していた。
1917年から20年頃の記事
前回とりあげた1919年1月1日号のコラム「一日一人人いろいろ」の第1回で、高橋清一領事の後任として1917年から領事を務めた松永直吉氏が紹介されている。
「熱心で親切で、真二千石(しんにせんせき)を得たとなかなか評判がよいが、忌憚なく云えば、高橋領事が味噌をつけた後で誰が来ても持てはやされるとはいえ、彼は決して無能ではない。熱心に事務を執って、人に城府(じょうふ)を設けない。年は若いが有能である。佐賀県人通有性のせせこましい処がなく、落ち着いている。出世する人だろう」
松永領事は、在留民の福利増進、日米親善に努め、シアトル日系移民社会の発展を支えた。1920年3月に後任の領事、廣田守信氏にバトンを渡した。このことについて記載された記事(1920年2月18日、24日号掲載)に、次のように書かれていた。
「松永領事は歴代の領事の中でも一番人気者で活動振りもよく、同胞の信頼が厚かったが3年で去るのは名残惜しい。外務省にとっては一些事(さいじ)に過ぎないが、在ワシントン州同胞にとっては重要問題だ。新領事廣田守信氏に希望を託す以外にない」
在米日本人は領事に対して大きな期待を持っていたことが分かる。廣田氏は広島県出身で1918年から外務書記官、内閣総理大臣秘書官等を務めたエリート外交官だった。
1934年以降の記事
1934年12月21日号には、内山領事の令嬢が突然の病気で亡くなるという訃報が掲載された。この記事によると、内山領事は1931年に妻、娘と共に3人でシアトルに渡ってきた。娘は地元の中学へ通いながらシアトルで日本芸術の紹介などを行い地元の人と親しく接していた。
1937年12月3日号には、岡本一策領事が2年8カ月の赴任を終えシンガポールへ総領事として栄転する記事が掲載された。岡本領事は日支事変による米人の対日感情悪化などの在留日本人にとって大きな問題の解決に尽力した。
12月8日号では、岡本領事の送別会が盛大に行われ、新しい領事として佐藤由己氏が赴任したことが記されていた。
『北米時事』社長の有馬純義は、ペンネーム「花園一郎」を使い「北米春秋」というコラムを毎日掲載していた。有馬は1938年3月3日号ののコラムに、佐藤新領事への期待を「佐藤領事を迎ふ」と題して次のように語った。
「領事と在留民との関係は一種独特のものである。それは故国に於ける官吏と一般国民との関係とは違う。領事は政府を代表する官吏ではあるが、その海外の任地における立場は単に官吏というのではなく在留民の指導者たるは勿論、その擁護者、その助言者更に海外に於ける日本人としての兄弟でもあるのだ。言葉を変えて言えば、在留同胞家族の戸主である。(中略)在留民としては、領事並びに領事館との協力を求める以外に何ら求めるところはない。しかも佐藤領事に於いては、多年の経験による練達の士である。(中略)一つ注文を取り次ぐならば、領事ができるだけ広くその管内の同胞の事情を親しく視察されんことである。これは地方同胞の常に新任領事に対する希望としてなかなか実現されざるところである」
シアトルにいる日本人がいかに領事への期待が大きいかが伺える一文だ。同年12月3日号をみるとシアトル領事館がセントラルビル移転後の30年のお祝いの際、佐藤領事は次のように語った。
「僕は管内を殆ど視察したが、対日感情は非常によいと思った。在米同胞が常に米人と親交を結んでいる結果だろう」
佐藤領事はもしかしてこの「北米春秋」を読んだのだろうか?その期待に応えるように、就任後、直ちに管内を切れ目なく視察し、多くの在留日本人と接していた。佐藤領事は在留日本人のために日米親善に努めた最後の領事だった。
次回はシアトルの急激な発展を支えたシアトル航路について紹介したい。
*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む。
参考文献
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年
*本稿は、『北米報知』に2021年9月6日に掲載されたものに、加筆・修正したものです。
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