そして、真珠湾攻撃の後、1942年1月、カナダ政府は、18歳以上45歳未満の日系人男子を道路建設キャンプに送ると発表した。当時44歳のボーディング・ハウス(下宿)経営者・川尻岩一(かわしり・いわいち)がそのキャンプ・リーダーであり長老格だったが、彼の知力と胆力は特筆に値する。彼は鳥取県人30数名をまとめて3月12日、総勢108人が道路キャンプへ向かった。
「男子が移動すれば、あとの日系人は移動しなくてよいと言って騙した人がいるのです」。「騙した人」とは、日系社会のボス・森井のことである。
道路キャンプでは、川尻さんはキャンプ全体の委員長、仲裁役として皆の面倒をみた。家族の身代わり、日系社会のためにと名乗り出た男たちだが、果たして自分の犠牲精神がどれほどの意味を持つのか、家族から届く手紙では、事態はどんどん悪化しており、強制立ち退きを命じられた妻たちは幼い子供を抱えて途方に暮れているようだった。男たちは「非常に心が荒廃していました」という。
「これはずるい政府の分断政策でした」という。総移動を委託されたBCSC(ブリティッシュ・コロンビア州保安委員会)は、日本の工作員となりうる男たちだけを沿岸部から遠ざけることで、もしも日本軍が西海岸を攻撃して来た時、第五列と化してカナダに反旗を翻す危険性を排除したのである。一方で、残された女、子供たちを引き立てて内陸部へ移動、分散させようとした。ということは、BCSCと通じていたはずの日系社会の「ボス」自身も騙されたことになるが、この一点だけは全員が鬼籍に入ってしまった今日では薮の中である。
結果として、自主的に道路建設キャンプに向かった男たちは、ほとんどが一世だった。そして、そこで川尻さんが見たものは、彼が「強硬派」と呼ぶ国粋主義者たちが、日本語の不得手な二世青年に向けた理不尽な嫌悪であり、いじめだった。おそらく、川尻さんはこの間に立たされて、日系社会の将来のあるべき姿について突き詰めて考えたはずである。
「・・・同じ日本人の中でも穏健派と強硬派がおり、日本は今に勝つ、何も毛唐にこき使われることはないと言って協力的でない人もいた。108人のうち半数くらいはそうでした。彼らからすると白人に協力する人間は皆、『犬』だったわけです」。
時間を進めて1945年春、政府は「戦争終結後に日本に帰るか、カナダに忠誠を尽くし、東部に再定住するか」と日系人に選択を迫った。この時、川尻さんはポポフ収容所の全体会議ではっきりと、「私はカナダ人として育った二世のためにカナダに残る」と答えたという。翌日、案の定、国粋主義者たちに取り巻かれボコボコにされそうになったが、川尻さんは毅然と抗弁した。
「私は愛国心ならば誰にも退けは取らない。だが、移民には移民の使命がある。戦争が終わって日本人がカナダに入ってきた時、ここに日本人が一人もいなかったでは移民の恥ではないか」と言った。これを聞いた国粋主義者たちは深く納得し立ち去ったという。なぜなら、彼らは「戦争が終わった時」という言葉を、「日本が戦争に勝利した時」と解釈したからだ。それもそのはず、日系社会は領事館関係者が流したとされる、「収容所にいた者は戦後35万円の賠償金が貰える」という噂を信じ込んでいたのだ。
一方、川尻さんは「日本に勝ち目がないことはカナダの新聞を読んで知っていた」という。彼らが噂を信じていることを見抜いて、それを逆手にとったのだ。川尻さんの慧眼は、すでに時代は忠君愛国の一世から、カナダ市民として成長した二世たちが日系社会を担う存在になっていることを見据えていたのである。
彼の見方を示す逸話が残されていた。1900年に帰化した日系人に投票権を与えよと裁判に訴えて3度の提訴の末に敗訴した本間留吉が、1945年にスローカン収容所で逝った。その葬儀で弔辞を述べた川尻岩市さんは最後にこう結んだという。
「・・・本間さんは、自分が志したことの成果を見ることなくあの世へいってしまうけれども、後にカナダに残って闘う人はまだまだおりますよ。いつの日か、あなたがやろうとしたことは達成されますよ・・・」(『日系ボイス』1993年9月号)。川尻さんは、この時、一世の時代の終焉を悟り、二世世代に夢を託していたのではないだろうか。
そして終戦を迎え、その3年後に日系人全員に投票権が与えられた。日系人はこれによって初めてカナダ市民としての全ての権利を手にしたのである。
© 2022 Yusuke Tanaka