もし「ボランティア活動」という職業があるならば、ニコール・ヒガ・コバシガワ氏は間違いなくこの職業を選んでいたに違いない。彼女はリマのラ・ウニオン学校に在学していた頃から、算数から体育(サーカスのワークショップでは、竹馬と軽業も学んだ)まですべての科目で成績が「優」だった。かと言って特に興味のある科目はなかったと言う。小学校6年生の頃、リーダシッププログラムに参加し、そこでチームワークやソフトスキル(主にコミュニケーション力)を学んだ。
高校生になっても毎週土曜日このプログラムに参加し、卒業後も2年間継続した。その熱心さが評価されて、夏休みにアエル・クラブ(日系団体AELU)の7歳児童向けのプログラムを手伝うことになった。「ボランティア活動が大好きで、そのおかげで人の成長について興味をもつようになったのす」と話すニコールは、リマ大学では心理学を専攻した。心理学は、子どもに行動上の問題点があるときにのみ必要なものではないということに気づいたが、別の環境に自分を置くことで、いい影響を与えることができるんだということにも気づいたと振り返る。
「心理学をどのように適用したらいいのかを学びましたが、やはり知らないことで衝撃的なこともたくさんありました。当時私はプエブロリブレ地区に住んでいたので、小中高のラ・ウニオン学校は家のすぐ向かい側でしたが、大学は3時間前に起きて通学しなくてはいけませんでした。また、小学生の時は、母語が確立してなかったのでちょっと大変でした。日常会話で「オジ」、「オバ」、「ご飯」、「お願い」、「ごめん」といった日本語をよく取り混ぜて話していました。こうした表現を使わなくなるまではかなりの時間がかかりました」。
ニコールは、大学費用を工面するため、いろいろな仕事をしたという。「パシフィコ共済組合から奨学金を受給していたのですが1、交通費や食費は自分で負担しなくてはいけなかったので、お弁当は毎日お婆ちゃんがつくってくれました」。
追いかける夢、目標
仕事しながら大学へ通ったニコールは、ボランティア活動の時間を確保し、ラ・ウニオン学校やアエル団体での夏休み活動、そしてラ・カシータ事業を支援するカサ・ロナルド・マクドナルド協会の活動にも参加した。その結果、アエル団体ではじめてお給料をもらってボランティアたちの研修をした。また、メタ社では学校や企業で実施するリーダーシップ・プログラムの企画を担うまでになったである。
こうしたボランティア活動をする合間、ニコールは日本で勉強するチャンスをうかがっていた。「いくつかの研修や留学プログラムに申し込んだのですが、どれも不合格でした。でも、17歳のときに応募した『世界青年の船』事業に受かりました。規定では最低年齢が18歳でしたが、大丈夫でした!」と嬉しそうに話しくれた。
これは2017年のことで、ペルー日系人協会で行われた説明会に参加したとき、日本政府が「世界青年の船」という世界の若者のリーダシップ育成し、国際協力の精神を育むための文化交流事業を主催していると知ったのです。
彼女は当時のことを次のように振り返る。
「私は家族や親戚、友達から日本の話をたくさん聞いて育ってきたので、このプログラムを知った時は夢のようでした」。東京に約10日間滞在し、その後1ヶ月間におよび船で世界各地を渡航した。「あの船は我々のために準備されていました。インターネットがなかったおかげで、多くの仲間とたくさんのことを共有し、話すことができました。私はちょうど、大学の学部のプログラムを半分ほど終えたばかりでしたが、みんなからたくさん刺激を受けたことで、社会にもっとプラスの変化を促したい気持ちがさらに高まりましたす」と話す。
日本人としてアイデンティティー
東京で受けた日本のもてなしは彼女にとっての発見でもあった。「全て事前に計画済みであり、参加者が快適に過ごせるよう準備されていました」と、そのときの驚きを話してくれた。また、各国の参加者の紹介が終わった後に岩手県北部を訪れたときのことについても熱く語ってくれた。
「はじめての雪景色でした。寒さを凌ぐ衣類を持っていなかったのですが、現地で貸してくれました。ホストファミリーは、沖縄出身の方でした。プロフィールを見て私が沖縄系であると知って選んでくれたのです。。ラッキー!と思いました。子供のころから沖縄に触れて育ってきましたし、エイサーも踊れます。このホストファミリーが沖縄の人だと分かったときはとても感動しました」。
彼女の両親は沖縄にルーツ、名護市と西原市にあるので「ウチナーンチュ精神」を生まれたときから身につけている。ニコールは、日系四世で、曽祖父はペルー日系人協会の会長職を歴任した比嘉エイチョウ氏である。曽祖母の比嘉ハル氏は、同協会の婦人会会長だったと記録されている。
ニコールはこの船内交流について、「船のルームメイトは京都で茶の親善大使だったので、茶に関わった私の家族のことについてもっと知ることができました。Miki Matcha(ミキ抹茶)という私の起業にも強く影響したのです」、と語る。
「日系人であることは、私にとって名字や出身地を超えた気持ちだと痛感しています。日本文化とのどれだけ関係しているかということではないでしょうか。ラ・ウニオン学校には非日系人のクラスメイトもいましたが、私から見ると彼らの仕草や行動様式はまさに日系人でした。彼らの他人を尊重する姿や忍耐強さなどは、日本文化と密接に関係しています。とはいえ、年配者は、このような見方をしてないかもしれませんが」と意見をシェアしてくれた。
新たなステップ
2020年にはプロンペルー「PROMPERU(ペルー貿易観光促進機構)」のボランティアチームに加わり、独立200周年記念事業に関わった。ニコールは、手本となる市民行動やメンタルヘルスについてビデオを制作したのである2。一年後はラボラトリアという会社に雇われた。これは低所得女性のデジタルスキルアップを目的とする法人で、「世界を少しでも良くする変化に貢献できる気がします。インターンで入ったのですが、生活に必要なスキルを初心者でも身につけられる責任あるポストをいただきました」と語る。
まだ24歳のニコール・ヒガ・コバシガワ氏は、学んだことを他の女性と共有しながら成長していると言える。「若い女性、母親になった女性、そして地方の女性など、いろいろな女性がいます。私はアドバイザー的な役割で、一人ひとりの『ライフスキル』の計画を手助けしているのですが、それが彼女たちの仕事に役立っているようです。半年間のコースだと、みんなの期待だけでなく、精神的にも高ぶってくるのも事実です。だからこそ心理カウンセラーとしての役割も必要なのです」と、「エキリブリオ(equilibrio、バランスという意味)」というステッカーについて話してくれた。ニコールは、このバランス感覚を大事にしながら、多くの人がもっと広い視野で世界が見られるようにと、当初から自身のボランティア活動を進めてきたのである。
備考:
1. “Para mí, Cooperativa Pacífico significa esperanza” (2020年10月27日, Cooperativa Pacífico)
2. Bicentenario Perú 2021: Voluntarios del Bicentenario
© 2022 Javier García Wong-Kit