私の人生はまだ終わっていません。去年80歳になりました。50年以上日本を離れて、主にシアトルに住んでいました。
私はいわゆる新一世、つまり新一世日本人です。一世とは戦前に日本から米国に来た日本人のことで、私は戦後に来ました。この場合の戦争とは太平洋戦争または第二次世界大戦のことです。私はここシアトルにいる過去も現在もすべての一世の方々の勇気、彼らが抱いてきた夢、強い家族の絆、そして仕事に打ち込むことで成功を成し遂げようとする目標を心から尊敬しています。
1969 年にシアトルに着いたとき、そこはボーイングとウェアハウザーがある労働者階級の町でした。シアトル・タコマ国際空港の入国管理局は小さな兵舎で、海外から到着する人はほとんどいませんでした。駐車場は空港ビルの前の屋外スペースでした。エバレットで 747 の仕事をしていた寺尾富美さんが迎えに来てくれて、そこのボーイング工場に連れて行ってくれました。彼によると、そこは世界最大の建物だそうです。私たちはジャパンタウンのジャクソン カフェで昼食をとりました。
1970年に就労ビザでシアトルに戻り、ユニオン903番地のケンブリッジアパートに落ち着きました。オーナーのジーンとトシ・ニシムラ夫妻は毎晩最上階の邸宅に夕食に招いてくれて、とても親切な人たちでした。カムリンホテルの頂上にあるクラウドルームやルーズベルトホテルの景色は、雲の上のネオンサインで輝いていました。坂原徹、坪田ミン、ジェームス・マツオカ、久保田武光、蔦川トム、アート・ハラノなど、多くの日本人一世と二世が私を助けてくれました。後にベルビューで日本食レストランを開いたときには、石光一、久保田トムなど、他にも大勢の人が助けてくれました。彼らのサポートと友情がなければ、私は今日ここにいません。森口富雄との友情は長年続いています。彼は私のアメリカ生活の「メンター」です。
1995 年、妻と私は、クロウインディアン居留地であり、世界のティピーテントの首都でもあるモンタナ州ハーディンまで車で行き、二世の牧場主で農業従事者のジム・シラサゴ氏にインタビューしました。ジム氏の両親は広島出身です。ジム氏は若い頃、パイクプレイスマーケットで働いていましたが、モンタナ州の「ビッグスカイ」に心を奪われたハーディンに戻りました。母親をモンタナ州のホワイトサルファー温泉に連れて行くのが、ジム氏の最大の楽しみでした。当時ジム氏は 80 歳前後でした。私はジム氏に長生きの秘訣を尋ねました。
彼はこう言いました。「できるときに人生を楽しんでください。」
7年前、私は日系ホライズン教育プログラムの一環として、16人の日系アメリカ人を案内し、ホワイトフィッシュ、グレートフォールズ、ヘレナにある一世のルーツを訪ねるモンタナ州へのツアーを企画しました。祖父がホワイトフィッシュのグレートノーザン鉄道で働いていたハーブ・ツチヤさんは、何百人もの日系一世が永住したホワイトフィッシュ駅博物館を訪れ、深く感動しました。
同じ年の2015年秋には、別の日系人のグループを日本グルメツアーに連れて行き、東京と京都を訪れました。私たちは延暦寺(比叡山)を訪れ、精進料理(仏教寺院のベジタリアン料理)を食べて素晴らしい時間を過ごしました。多くの旅行者が今でも、人生で最高の旅行だったと褒めてくれます。私は生まれた国を案内できて幸せでした。
好むと好まざるとにかかわらず、私の残りの人生は最終章に入りました。
人生至
ところ せいざん あり
住めば都
死ぬ場所はどこでもいい。生まれた場所である必要はない。心意気を持って世界を発見し、コミュニティの中でうまく生きる。それがあなたの資本となる。
私は健康に感謝しています。78歳で開業したレストランで、次世代の若者たちに囲まれながら毎日働くことができています。私たちがこれまでやってきたことはすべて、将来のメインステージショーのリハーサルだったのです。
私の人生への情熱は、次の角を曲がったときにどんな景色が私を待っているのか知りたいという好奇心から生まれます。おいしい食事はおいしい人生です。おいしい食事はおいしい人生です。
*この記事はもともと2022年3月18日にThe North American Postに掲載されました。
© 2022 Sam Takahashi