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日系(ニッケイ)—をめぐって

第6回 ルーツを探して -テキサス・福山編-

日本からアメリカへの移民というと、戦前は西海岸の諸州などでおもに労働者として雇われるというのが一般的だった。しかし、広く全米をみると、まれにだが日本人による入植事業という自営による移民という形もあった。

20世紀のはじめにフロリダ州南部につくられた大和コロニーはそのひとつだが、州単位でみると同じ南部のテキサス州での入植事業がもっとも盛んだった。

日露戦争の前、在ニューヨーク総領事の内田定槌は、テキサス州の米作の将来性を官報などで世に知らしめ、日本人の入植を奨励した。このことは日本の移民関係の雑誌でもとりあげられ、事業意欲のある日本人の資本家や知識人らが、相次いで広大なテキサスに足を踏み入れた。1930年から数年の間にテキサス州内では、50以上の日本人による農業経営がはじまった。

これらの事業のなかでもっともよく知られるのが、ヒューストンの南、ウェブスターでの西原清東、清顕父子が経営する農園だ。また、ヒューストンの東100キロほどのところでは新潟県長岡出身の岸吉松が岸コロニーをつくりあげた。

西原農園や岸コロニーより10年ほど遅れて、メキシコとの国境近くを流れるリオグランデ川の河口近くでも日本人によるコロニーがつくられた。湾岸のまちブラウンズヴィルで、鹿児島県出身の川畑実をリーダーとする7人が協同で経営に乗り出した農園である。

すでにサトウキビ・プランテーションとして整備された農園を買い取った7人は、50人から70人の労働者を雇い豆類やジャガイモ、トマトを栽培した。しかし、第一次大戦後の不況の影響や土地の質がよくなかったことなどが理由で、わずか3年で解散してしまった。

その後7人はそれぞれ独立、そのなかで川畑は農産物の輸送や野菜・綿花栽培などを続けて成功、事業のほかにも地元に教会を建てるなどして地域に貢献したことでコミュニティーからの信望を集めた。


広島県福山市へ

2013年7月、私はテキサス州にかつてあった日本人コロニーや農園のあとを訪ね、関係者の子孫などに会った。そのなかに、川畑実の親戚のランドール(ランディー)・サカイ氏がいた。メキシコ国境に近いイダルゴ(Hidalgo)空港に出迎えてくれたランディーは、かつてのヤマトコロニーの農園あとや現地に残る日系の人を紹介してくれた。

それから数年して、ランディーから自分の父方のルーツをもう少し詳しく知りたいという連絡をうけた。テキサス州オースティンに住む彼は、川畑実の次女ローズとユタカ・サカイの間に生まれた子で、ランディーは、父方である坂井家のルーツについて調べてみたいということだった。

ランディーは、まず私に日本語の資料のコピーを送ってきた。それは、坂井家代々の人たちの戒名などが記されたもので、「法名帳」と言われるもののコピーだった。日本での家系を知るものとして、戸籍と並んで有力な手掛かりとなるもので、名前と亡くなった日付と戒名、そして戸主との家族関係が記されている。

もっとも古い日付で、享保18年(1733年)に亡くなった先祖についての記録があった。私は、判読できる範囲でこれらをローマ字や算用数字に置き換え、説明を加えてランディーに送った。

ランディーとのやり取りのなかで、次にランディーの祖父の出身地である広島県福山市に行き、ランディーの祖父、坂井與平の戸籍謄本を入手し、先祖の墓をめぐることになった。與平は、坂井家でアメリカに最初に渡った人物である。

ランディーの代理人として必要な戸籍を入手するにはどうしたらいいのか。事前に福山市役所に問い合わせたところ、彼の自筆の委任状と彼と彼の父親の出生証明書が必要だという。署名した委任状をEメールに添付して日本でプリントアウトしたものはダメで、あくまで自筆の委任状でなければならないきまりだった。

そこで、こちらから日本語の白紙の委任状をテキサスのランディーに郵送し、これに署名してもらい、出生証明書とともに私のところに送ってもらった。

2020年3月、取材で広島市を訪れたのを機に福山まで足をのばし、福山市役所の戸籍の担当部署を訪ねた。幸い、福山市にはランディーの親戚にあたる坂井孝雄さんがいたので、孝雄さん同伴で、ランディーの代理人として彼の祖父である與平の戸籍謄本を申請した。戸籍係の人はしばらくして與平の記録を確認すると謄本を私たちの前に提示し、その読み方について丁寧に説明してくれた。謄本には與平の父親の代までの記載があった。


菩提寺をめぐる

戸籍謄本を得た翌日、孝雄さんが運転する車で、市内から北西に30分ほどのところにある、安養寺という真言宗の寺を訪ねた。ここは坂井家の菩提寺である。高台の墓地の一画には、坂井家の人々の古い墓石がいくつか並んでいた。

そのなかには、角がとれ彫られた文字も判読できないほどのものもあるが、これらとは別に、広い区画のなかに立派な墓石が二つ肩を並べていた。その一つがランディーの祖父、坂井與平の墓で、もつひとつは孝雄さんの祖父にあたる人の墓だった。

福山市で訪ねた坂井家のお墓

昭和8(1933)年に建てられたところをみると、おそらく與平がいったんアメリカから帰国した時に将来に備え建てたとみられる。最後はふるさとに骨を埋めるつもりだったのだろう。しかしそれはかなわなかったようだ。

次に私たちは、安養寺から6、7キロ南にいったところにある西教寺という寺に向かった。というのは、坂井家のもともとの菩提寺は西教寺で、それがあるとき転居に伴い安養寺に墓も移していたのだ。西教寺は浄土真宗なので、真言宗の安養寺に移るのは問題なかったのかと疑問に思ったが、安養寺の住職によれば、地域の寺として他宗派の墓も受け入れていたという。

西教寺では、もう一つの疑問を住職に尋ねてみた。それは戒名についてだった。浄土真宗には戒名がないはずで、坂井家ももともとは浄土真宗だったから、故人には戒名はないはずなのだが、ランディーがもっていた法名帳の故人はみな戒名がついていた。

この点は、西教寺の住職によれば、岡山の西(備中)から広島にかけての地域は、浄土真宗でも戒名をつくことがあったという。人々が価値として戒名を欲していたとのことだった。

二日にわたるランディーのルーツに関わる旅を終え、後日、戸籍謄本の英訳をはじめ坂井家の墓や菩提寺の写真などをランディーに送った。

(敬称略)

 

© 2022 Ryusuke Kawai

このシリーズについて

日系ってなんだろう。日系にかかわる人物、歴史、書物、映画、音楽など「日系」をめぐるさまざまな話題を、「No-No Boy」の翻訳を手がけたノンフィクションライターの川井龍介が自らの日系とのかかわりを中心にとりあげる。