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ハイメ・アヒト:ニッケイ料理の「親善大使」

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世界を駆け巡るハイメ・アヒト。「クレイ・レストラン」に着任するまでは、シェフとしてペルーやメキシコ、そしてアルゼンチンで働いた経験を持つ。写真:ハイメ・アヒト所有

美食学というものが世界を歩いて磨くものであるなら、このペルー人シェフ、ハイメ・アヒト氏は二つの大陸にニッケイ料理を広げた親善大使といえるだろう。ハイメの経歴は多様だ。家庭で料理のセンスを身につけたというハイメは、グラフィックデザインとマーケティングを学び、歯科衛生士の資格を取得し、工房まで持ち、そして以前、日本に出稼ぎへ行った経験もある。現在、サウジアラビアとカタールの間にあるペルシャ湾内のバーレーン王国に住み、本格的ペルー料理店でシェフとして活躍している。

この店の名前は「クレイ・レストラン」。キッチンスタッフ31人のうち10人がペルー人であると、彼は誇らしげに話してくれた。アルゼンチン、メキシコ、中国、そして今はバーレーン王国という国でシェフをしてきたハイメは、どの国でもレストランの開業準備やメニューの開発、料理人の研修に関わってきた。とはいえ、いつも料理関係の仕事に携わっていたわけではない。出稼ぎ労働者として訪れた日本では、一時的ではあるがいくつかの工場でも働いた。

「初めて日本に行ったのは1991年で、2回目は2001年。計約1年半日本に滞在しました。日本では、他のペルー人と集まるとペルーの郷土料理である魚介類等のピリ辛マリネ「セビチェ(cebiche)」をつくり、私もよく作るのを手伝いました」と話す。当時はまだ、彼の長い美食家としてのキャリアは芽を出していなかった。ハイメにとって大きな転換期となったのは、パートナーと一緒にオーストラリアのシドニーへ行った2007年である。「そこにあるホルムズ・インスティチュート(学校)で、料理を学びました」と振り返る。この時彼は33歳だったが、その時点で美食家という困難な道を歩み始めていたとは本人がもっとも想像していなかったに違いない。


ゼロからのスタート

「シドニーでは、今はかなり知られている「ニッケイ料理」というものを学ぶことはなかった。そこでは国際的にどこでも通じる調理法を学んだ。「受講生はみんな外国人で、インド系の料理が多かったです。クラスメイトはフィリピン、カンボジア、ポーランド出身の人たちでした」と話す。しかし、2008に発生した世界金融危機の影響で、ペルーに戻ることになってしまった。

幼い頃は、リマ郊外の港町カジャオで育ち、学校では「チノchino(中国人という意味だが、日系人も東洋系なのでチノと呼ばれていた)」とよく呼ばれていた。日系社会にある「ラ・ウニオン」という中学校に入学してからは、そう呼ばれることはなくなったが、他の日系人とあまり馴染めなかったそうだ。

「ラ・ウニオン学校で、自分は混血であるとはじめて意識しました。日系人の習慣も身につけていましたが、母は日系人ではありませんでした。でも母の春雨はとても美味しかったです」と話す。。当時のクラスメイトの一人に、今はとても有名なシェフ、ハジメ春日氏がおり、ペルーに戻ったとき、ハジメ・シェフに一緒に働きたいとハイメは話を持ち込んだ。この時、ハイメは一番の下の仕事からはじめたいと願いでた。しかし、すぐに板前として寿司関連の冷たい料理を担当することになった。当時、日系人でそうした仕事ができる人がとても少なかったからである。

その後、リマのスルコ地区、ミラフローレス地区、サンイシドロ地区にある「HANZO」というフュージョン・レストランで働き、名門店「ACHE」でも経験を積み重ねた。当時のことを、ハイメは次のように話してくれた。「2007年にハジメ春日シェフが大きな賞を受賞したので、店は大盛況でした。毎日400人から500人の客が来ていました。私はテーブルで注文を待っている客のお通しを担当していました」。

数年の間にハイメは実力を発揮し、ペルーを代表して海外で羽ばたく時期を迎えた。しだいに他の店の料理人育成にも携わるようになった。彼は、幼い頃カジャオの小学校にお弁当としてチキンカツや卵焼きを持参していたが、クラスメイトはとても興味津々にそれを見ていたという。


海外での経験と実績

海外でのスタートはメキシコの「Rokkaku Taberna Nikkei(六角タベルナ・ニッケイ」という店だった。ここで多くの板前を育て、その後アルゼンチン中部地方のコルドバ州にある「Cruz Espacio(クルス・エスパシオ」という店でも料理人育成に励んだ。また、この時はハジメ・シェフも同行し、新しいニッケイ料理とペルー料理のメニューを開発した。「あのときは、ハジメ・シェフとセサル・コントレーラス氏と行きました。その後オーナーから別の店の開業に協力して欲しいと依頼されたんです。『Mercado Central(メルカード・セントラル、中央市場)』という店で、そこではアルゼンチン人好みのフュージョンメニューを開発し、肉の炙りとチミチュリソース(オレガノやハーブ中心のソース)のロール巻きを提供しました」と話す。

アルゼンチン、コルドバ州のクルスエスパシオ・レストランで研修を行っているハイメ・アヒト

またメキシコでは地元料理をアレンジし、「イヴァン・カスソル氏とメキシコ人に会う料理をメニューに組み込んだ。彼らは辛いものを好むので、どんな料理にも醤油を垂らしてました。「チリ・トレアド」というソースは、玉ねぎを炒めて、ニンニクペーストと胡麻で味付けすることで、かなり東洋的になりました」、とハイメは振り返る。しかし、なんといってもペルー料理のフュージョンスタイル(多国籍かつエスニックの融合及び独創的な料理を指すことが多い)に新たな可能性を見出し、その後彼は中国の北京へ渡った。そこでは、チア、フランシスコ、マリア、ファンカルロス兄弟のニッケイ料理店の開業をサポートしたのである。

メキシコシティーのロッカク・レストランの板前スタッフと

北京では、「PachaPapi(パチャパピ)」というレストランを自らオープンし、ニッケイ料理と中国系ペルー料理を融合したものを提供した。ペルー人がよく食べるチャウファ(炒飯に類似)やローモサルタード(牛肉野菜炒め)は、中国ではまったく知られていなかった。幸いにも、有能な通訳のおかげで対応することができ、何とかオープンにこぎつけることができた。しかし、上海の「Sakemate(サケマテ)レストラン」事業では、スペイン語を理解する人がなく、少し英語がわかるバーテンダーがいるだけだったので、研修とメニュー開発は中国語、英語、日本語、スペイン語をアレンジして行ったそうだ。上海という街では、どんな食材も手に入るとハイメはとても喜んで話してくれた。「あそこではなんでも手に入るんです。あるときドイツ人のお客さんが私に写真を見せてクイ(食用モルモット)を食べたいと言ってきました。私は10日後にはそれを入手することができ、アヒ・パンカという紫唐辛子で味付けをして、フライにして提供しました」。


もう一つの東洋

ハイメは中国の各都市に約4ヶ月間ほど滞在したが、家族のことでホームシックになった。息子のダリオ君とは毎日電話で話をしていたが、やはり当時は今のように簡単に通信できる状態ではなかった。また、日本にいたときはまだインターネットが普及していなかった時代なので、妻のマルレーヌにはいつも手紙を書いていたという。そしてこのコロナが蔓延するのをきっかけに、彼はペルーに戻ることになった。そんな中、ハイメは以前からやりたいと考えていたケータリング会社、「アヒト・ケータリング社」を設立した。

「私は2019年に中国に行きましたが、新型コロナの影響で2020年2月にはペルーに戻ることになってしまいました。リマはロックダウンで誰も外食できない状況だったのでケータリングのサービスをはじめました。すると友人らはニッケイ料理が欲しいとリクエストしてきました」。しかし、その後すぐにまたも東洋の国から誘いがあり、2021年9月ドバイに向かうことになった。そして最終的にはバーレーン王国のクレイ・レストランの料理長に任命された。2022年の半ばまでの契約だが、彼は家族を呼び寄せたいと思っている。

このバーレーンという小さな国には、規制が厳しいサウジアラビアから多くの人がやってきて、たくさんお金を使うそうだ。週末が木曜日から始まるので、連休のように週末をエンジョイするという。

「この国にこんなにたくさんのペルー人が働いていることに驚きました。コロナ禍のペルーでは、日曜日に焼肉パリージャ(さまざまな牛の部位を唐辛子系のソースで味付けをして炭で焼く)を食べるのが習慣になっていましたが、今はそれが食べたいですね。この国はイスラム教なので、それができないんです。食材の入手も難しいし、バーベキューをするためには特別な許可が必要なうえ、そうした肉を焼くには別のキッチンが必要となります」と新たな環境について話してくれた。

ドバイのクレイレストランのキッチンスタッフと。真ん中のがペルー人シェフのジョルビー・ウアチョ氏  


もう一つの島での挑戦

義務教育を終えたハイメは、日本に出稼ぎに行き、そこでは一人で自炊をして生活をしていた。「我が家は、みんな美味しい料理をつくります」。日本ではプリンター製造の工場で働き、オーストラリアでは清掃業務に従事し、そしてバーレーン王国では南アフリカに肉料理やギリシア料理の店を40店舗ももち、アラブ諸国での飲食業への投資を拡大している会社で働くことになった。

「私は2021年12月にこの島国にやってきました。この国の存在さえ知りませんでした。総人口が160万人ぐらいの穏やかな国で、ドバイのようなコスモポリタン的な大都市はありません。6月頃は非常に暑い季節ですが、ここに住んでいたいと思います」とこの島に惚れ込んでいる様子だ。契約している会社は、ロンドン、アメリカ合衆国、サウジアラビアで新たなレストランを開業しようとしている。 

ペルー料理では、重要な酸味を出す食材としてレモンを使うが、バーレーンでは3種類のライムを混ぜて、ようやくペルーで使用するレモンの味をだすという。ハイメは、リマのように海が見える街で、先祖から受け継いだ料理を伝授していることに喜びを感じている。たくさんのレストランがあるこの国で、彼は今やペルー料理のりっぱな美食大使といえるだろう。「ニッケイ料理によって自分のルーツを再発見することができた」とハイメは誇らしげに言う。幼い頃参加した運動会や二世カジャオ協会、そしてリマの「HANZO」での記憶が蘇るようだ。「彼らとはいつも連絡しあっている。ドバイで再開した仲間もいるが、我々は大きな兄弟愛に包まれた集団で、大きな家族ともいえる」と締めくくった。

 

© 2022 Javier García Wong-Kit

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執筆者について

ハビエル・ガルシア・ウォング=キットは、ジャーナリスト兼大学教授で、雑誌『Otros Tiempos』のディレクターを務めている。著書として『Tentaciones narrativas』(Redactum, 2014年)と『De mis cuarenta』(ebook, 2021年)があり、ペルー日系人協会の機関誌『KAIKAN』にも寄稿している。

(2022年4月 更新)

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