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1960年渡米、65年からオックスナードで農場経営・永利ファームの永利国光さん

「自分で種を蒔いて自分で刈り取ることが大切」と自己責任の重要性を語る永利さん。  

短期農業労務の後に再渡米

これまでにアメリカで日本野菜を栽培している農場のオーナーを取材してきたが、今回、ご紹介する永利さんはカリフォルニア州のオックスナードで広大な農園Nagatoshi Farmを経営し、さらに野菜果物の卸業であるNagatoshi Produceのオーナーでもある人物。福岡県出身の永利さんは1939年生まれ。21歳の時、短期農業労務者のビザで3年の期間限定でカリフォルニアにやって来た。

オックスナードの農園で研修という名の農作業に従事している間、彼の目線は常に「自分が経営者だったらどうするか」というものだったと話す。「9人兄弟の8番目。自分の居場所は日本にありませんでした。人に使われるのは好きではなかった自分の目標は、海外で農場を経営すること。アメリカか、もしくは南米に移住したいと思っていたから、最初の3年間も仕事が苦しいとかきついとかいう気持ちはなく、農場の経営について吸収したい、習いたいと必死でした」。

当時、1ドルは360円。「日本で働いていた時は1日の日給が300円でした。ところがアメリカに来たら、1時間1ドルもらえました。そして、1日、12時間から13時間働き、週に6日、時には7日働き続けました。3年で貯めたお金は5000ドル。もったいなくて使えませんでした。日本円にして180万円です。日本では100万円あれば一軒家が建つ時代でした」。お金は溜めたが、部屋は全くプライバシーがない18人部屋だった。

こうして3年の研修期間を終え、日本への帰りの船の中で南米帰りの人々に会った。彼らから南米はアメリカよりもかなり遅れているという状況を聞き、永利さんは移住先をアメリカに定めた。64年に再渡米し、1年間ガーデナー(庭師)の仕事に就いた。「普通のサラリーマンが月に500ドルの給料をもらっていた時代、ガーデナーとして月に2000ドル稼いでいました。でも、それを1年で辞めてしまったのは、日本男児として、女性に指示されることがどうしても受け入れられなかったからです」。今から60年前、アメリカではすでに顧客である主婦が庭師に指示を出していた。こうして、高収入の庭師を辞めた永利さんは、オックスナードに4エーカーの土地を借りて、元々の目標だった農場経営に乗り出した。

「当時、オックスナードには日本人が経営する農場が60軒ありました。今はもう、そのほとんどがなくなってしまいましたが。私は始めたはいいけれど、金なし、経験なし、信用なしといった状態でした。なんとか軌道に乗るまでに6年ほどかかりました。何度も投げ出しそうになりました。でも、『潰してしまった』と人に言われるのが嫌で、あと1日頑張ろう、もう1日だけやってみようと続けた結果が今につながっています。大きな転機になったのは、当初は白人向けの野菜ばかり作っていたんですが、81年に日本野菜を作り始めるようになったことです。さらに卸業のNagatoshi Produce(以下プロデュース)を開けてから、金の苦労はなくなりました。今でもファームには30人、プロデュースにも30人の従業員がいます」。

日本野菜作りへ、日本食ブーム到来

ロサンゼルス中心地から車で1時間半ほどの場所にあるオックスナードの農園の様子。一面の大葉。  

そして永利さんが日本野菜に転換した40年前頃から、アメリカに日本食ブームが上陸した。「当時あった日本食マーケットのニューメイジやモダンフードに、うちの東京ネギやカブが並ぶようになりました。永利の大根は青首大根で天下一品と評判を呼びましたし、カイワレの販売も始めました」。日本食マーケットだけでなく、全米各地で増え続けた日本食レストランでも日本野菜の需要が高まった。現在もプロデュースでは全種類の日本野菜を扱っているが、農園での栽培は大葉中心になっているそうだ。

後継者は長男のセスさん。永利さんが言うには「息子はサーフィンで優勝したりゴルフに打ち込んだりとスポーツに熱心で、農業に関心はないようだったが、結局、家業を継ぐことになりました。週日はロサンゼルス市内のプロデュースに出勤し、土曜はオックスナードの農園に出かけています」とのことだ。また、プロデュースの経営には経理をはじめ、永利さんの妻の久子さんが携わって支え続けている。

60年近くの農場経営を振り返り、永利さんは笑顔で「私の人生に悔いはないです」と話す。「その時、その時で全力をかけて取り組んできました。あの時、こうしていたら良かったなんて言葉はベストを尽くしていれば出てきません。もし、結果が悪ければ自分に能力がなかっただけのことです。もともと、人のせいにするのが嫌な性格なのです。決断は経営者である自分が下す。だから責任は常に自分にあります。そういう生き方を貫いてきました。人生、どんなに途中が苦しくても最後が良ければ、苦労も笑い話になります」。

何が最も苦しかったのかと聞くと、永利さんは支払いに追われ続けたことだと答えた。「毎日、いろいろな請求書が届いていました。でもまだ金がなかった頃で、その請求書を一面に並べて、これはすぐ支払う、これはまだ待ってもらえると優先順位を付けてやりくりしていました」。金の工面で追い詰められて、髪の毛が一気に白くなったこともあると振り返る。「3回、髪が白くなりました。金の苦労は一生続くだろうと思っていましたが、お世話になった方の助けもあって乗り越えられました」。

80代に入り引退の時期を迎えているのかと思えば、実はこれから農園で採れた柚子と唐辛子を使った柚子胡椒をアメリカで人気商品にしたいと取り組んでいるところだと話す。まだまだ引退は先のことになりそうだ。

この取材で初めて会った永利さんだが、私の目にはとても懐かしい人に映った。同じ九州出身ということもあるのかもしれない。しかし、それ以上に、永利さんが今の日本ではなかなか出会えない、「言い訳をしない。コツコツ努力を続けて妥協をせずに結果を出す」古き良き日本人の姿そのものだったことが、私が感じた懐かしさの理由に違いない。

 

© 2022 Keiko Fukuda

California Nagatoshi Farm Oxnard Shin-issei temporary agricultural workers