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ニッケイ物語 10—ニッケイの世代:家族と コミュニティのつながり

収容所と軍隊ー私の家族史

祖父トモ

私の祖父トム(トモ)は本当にやんちゃな人で、祖父自身、自分のことを家族のやっかい者だと言っていた。周りを「ひっかき回す」のが大好きで、家族で口論が始まると、それを見ていつも大笑いしていた。                        

私のおじいちゃん、トム・オマエ軍曹

また祖父は面白がって、祖母をシドニーにあるセント・アンドリュース大聖堂で待ちぼうけにさせた。その日は二人の結婚式だった。祖母は祖父が来るのを「ずっとずっと、ずうっと」待っていた。祖母は、祖父の首をしめてやりたいと思ったが、祖父はただ笑っているだけだったという。

私は祖父のことをポップ(Pop、おじいちゃん)と呼んでいた。頑固で強気で働き者で、それでいてカリスマ性があって、たくさんの人に好かれていた。祖父がいつも自信に満ち溢れていたのは、きっとオーストラリア人の母アニーの血を受け継いでいたからだと思う。アニーは戦時中、救急車の運転手として働いていた。そして晩年には、ある裕福な男性の運転手として、広大なナラボー平原の砂漠横断の旅に同行したこともあった。結局その男性は途中で心臓発作を起こし帰らぬ人となってしまったが、それでも祖母はその人の遺体を乗せたまま遠く離れた隣町まで走り続けたらしい。

曾祖母のアニー

一方、おじいちゃんの父親ショウジロウは日本人で、礼儀正しく、穏やかに話す人だった。いつも女性に対して敬意を払い、働き者で、ギャンブルが好きだった。お米の研ぎ方と炊き方は父親から教わったと、おじいちゃんは言っていた。おじいちゃんの得意料理はマグロの缶詰を使ったオリジナルチャーハンで、家族に人気の定番メニューとなった。

おじいちゃんと私には共通の好きなものが3つあった。それは家族の歴史、旅行、そしてブラックベリーのジャムだった。

私は幼少期や大学時代のころ、シドニーの郊外にあるパラマタという都市の近くにある祖父母の家を定期的に訪れた。母とその兄妹はそこで育った。キッチンのテーブルにはレトロな紫色のイスがあって、私たちはよくそこに座っておしゃべりをした。おじいちゃんは、人の名前とか日付といった「情報」についてはよく教えてくれたが、私が本当に知りたかったのは、その当時、その瞬間、みんながどんな会話を交わしていたのか、どんな様子だったのか、ということだった。

おじいちゃんは2018年に亡くなる前に、とても貴重なものを残してくれた。それは、昔の写真や出生・死亡証明書、契約関係の書類、新聞の切り抜きなど、実にさまざまななもので、祖父が私たちの家系を調べるために長年にわたり集めていたものだった。

おじいちゃんから譲り受けた木箱。おじいちゃんの父ショウジロウが持っていたもので、収容所の仲間が作ったものと思われる。

祖父が亡くなった後、私たち家族に関する資料はすべてオーストラリア国立公文書館に寄贈した。私がこれまでに発見した資料を、祖父にも見せてあげたかった。

ポップへ

私、やっと分かったんだ。おじいちゃんの家族が、戦争中も戦争が終わった後も、オーストラリアで大変な思いをしていたってことが。おじいちゃんが亡くなる前にそのことに気が付いていれば良かった。

I know this is why you left all your research to me. You knew I would continue to explore our history and treat all this knowledge with care. So here I go, trying to tell your story as best as I can.

でもおじいちゃんが資料を全て私に託してくれたのは、私がこれからも家族の歴史について調査を続けていくってこと、そしてこの貴重な財産を大切に扱うってことを知っていたからだよね。だから私、決めたの。これからもっともっと、おじいちゃんのストーリーを伝えていくために頑張るって。

シェイ


紡がれた過去

曾祖父のショウジロウ・オマエ

私の曽祖父ショウジロウ・オマエは、1880年に和歌山県の海南市で生まれた。22歳のとき、横浜港から熊野丸に乗り込み、76名の労働者と共にオーストラリア北部のタウンズビルへと渡った。そしてサトウキビ栽培のプランテーション農園の開拓地で4年間の労働契約を結んだ。

サトウキビ畑の状態はなかなか良かったらしいが、どういうわけか数か月後、曽祖父は逃亡してしまった。結局捕らえられ、罰金3ポンド4シリングを払うか、3ヶ月間刑務所に入るか、どちらか選ばなくてはならなかった。結局どちらを選んだのかは分からない。

1902年から1914年までの間、ショウジロウがどうしていたのかよく分からないが、ブリスベンにある洗濯屋で働いていたという記録を見つけることできた。そして1930年代には、洗濯屋を2店舗経営するまでになった。

兄妹と映る、不機嫌な様子の祖父トモ(手前)

ショウジロウが、のちに妻となるアニーと出逢ったのは、学校で造園の仕事をした時だった。(ショウジロウの父セヨモンもかつて日本で庭師をしていた。)アニーは、ニューサウスウェールズ州北部のインベレルという町にある農場で育ち、当時その学校で教師をしていた。1918年に2人は結婚し、5人の子供にも恵まれた。アヤ(1918年生まれ)、ユキ(1921年)、カズ(1923年)、トモ(1925年、私の祖父)、そしてキヨ(1926年)と名付けた。兄妹それぞれに日本の名前を付けたのはとても素敵なことだと思ったが、それは祖父のその後の人生を困難にする原因でもあった。

ボーイの制服を着た当時13歳のトモ

おじいちゃんが12歳のとき、一家は引っ越した。祖父は新しい学校に通わず、働き始めることにした。それはまさにトモらしい行動だった。祖父はいつだって、自分がやりたいことをやり、周りの期待通りに動いたことなど一度もなかった。祖父はすぐに、シドニーのジョージ・ストリート沿いにある、ホイツ・センチュリー・シアターという映画館でボーイ(案内係)として働き始めた。これをきっかけに、祖父は映画の仕事に携わり、生涯、映画に情熱を注ぐようになった。

1941年12月、日本が真珠湾攻撃を開始すると、オーストラリアは日本に対して宣戦布告をした。翌日にはオーストラリアに住むほぼ全ての日本人が捕らえられ、その中にはおじいちゃんの父ショウジロウも含まれていた。その時すでに61歳で、オーストラリアには39年も住んでいた。

ショウジロウの長女アヤも、1942年5月に強制収容された。アヤは当時、日系企業でタイピストとして働いていた。警察に取り調べを受けた時「残念ですが、私はオーストラリア生まれです。でも私は自分のことを日本人だと思っています」と言ったらしい。アヤはすぐに拘束され、最初はリバプール収容所(ニューサウスウェールズ州)、その後タツラ収容所(ビクトリア州)に移された。当時24歳だった。

その頃ショウジロウは、ニューサウスウェールズ州にある、人里離れたヘイ収容所に収監されていた。その間、妻のアニーは2店舗ある洗濯屋を続けた。

1942年5月15日、ショウジロウは外国人法廷に連れ出された。英語は当然話せたが、ショウジロウは通訳を通して発言をした。裁判官に、不当に収容されたと思っているかと尋ねられると、ショウジロウは否定した上でこう答えた。「私は戦争が終わるまで、この地に残る覚悟です」。こうしてショウジロウは、抑留に対しての訴えを取り下げることに同意した。永田百合子著「Unwanted Aliens」という本によれば、このとき法廷に立たされた日本人の実に半数以上は、訴えを取り下げたという。世間の反感を恐れてのことだった。

兄妹のキヨ、ユキ、アヤ
妻アニーからの手紙で、アヤがタツラ収容所にいることを知ったショウジロウは、収容所の司令官に書面を出し、タツラ収容所に自分を移送してくれるよう頼んだ。要望は受け入れられ、二人は再会を果たし、1942年のクリスマス直前に、アヤが釈放されるまで2か月ほど2人はタツラ収容所で共に過ごした。国家安全報告書によると、アヤは、日本人だと思っているという当初の発言を否定し、警察官のあまりに横柄な態度に腹を立てたとある。また、「見た目がまさに日本人」であるにも関わらず何の危険ももたらさなかった、と記載されていた。

一方、収容所の鉄条網に残されたショウジロウは、ひどく体調を崩し何度か病院に送られた。1943年6月、健康状態を理由に63歳で釈放された。その7ヶ月後、シドニーの自宅で家族に見守られる中、結核と心筋炎のためこの世を去った。

大叔父のカズ・オマエ兵

ショウジロウが亡くなるわずか2週間前、祖父のトムは18歳でオーストラリア陸軍に入隊した。(この時から祖父はトムという名前を使うようになった。)祖父は空軍にも志願したが採用されなかった。兄のカズは、1年前にすでに陸軍に入隊していた。

私はおじいちゃんに聞いてみたことがある。日本人の血を引く祖父に対して、軍の仲間はどんな風に接していたのか。祖父は、皆に受け入れられているマオリ族だと言っていたという。

しかし軍は、祖父のルーツをもちろん知っていた。安全報告書には、祖父の父親と姉が強制収容されたことが詳細に記録されていたが、この一家に危険性はないとも結論付けていた。一方で、祖父の「見た目が典型的な日本人」なので、「軍の機密に関わる任務」には就かせないほうがよい、といった記述もあった。祖父が敵の手に渡るのを危惧してのことだった。

結局、おじいちゃんは軍務に携わることになった。祖父は、自分の父親が日本人であるという理由で北部の戦地へ配属されることはないと知り、陸軍の大臣へ手紙を書いた。「私の母は(オーストラリア生まれの)イギリス国民で、家族全員、同じです。そして私たち家族は全員、オーストラリアに忠誠を尽くしています」。そしてさらに続けた。「国家に貢献することは私の使命だと感じています。このような状況を踏まえ、ご対応いただけると幸いです」。

手紙が功を奏し、おじいちゃんはパプア・ニューギニアの戦地で、映画部隊の任務に就くことになった。そこで映写設備を与えられ、娯楽として隊員たちに映画を上映した。ある時、映写機のリールで指を切断し、手術を受けたこともあった。しかしそんなことがあっても、祖父の映画に対する情熱は消えることがなかった。

また陸軍時代、カウラ事件後におじいちゃんは日本人捕虜をヘイ収容所へ移送させる任務に携わった。カウラ事件とは、第二次世界大戦中に起きた最も大規模で、最も悲惨な捕虜の脱走事件で、1104人の日本人捕虜が脱走を試み、そのうち231人が命を落とした。

軍隊に所属したことは、自分の人生の中で最高の出来事だったと、おじいちゃんは言っていた。祖父は毎年、アンザック・デー(オーストラリア・ニュージーランド軍団の日)のパレードで行進するのをとても誇りに思っていた。当時まだ幼かった私は、よく兄達と一緒になってテレビの前に集まり、おじいちゃんが映画部隊の旗と共にジョージ・ストリートを行進してくるのをわくわくして待ったものだった。しかし、年を追うごとに行進する仲間は減っていき、ついにある年、おじいちゃん1人だけになってしまった。その後、祖父は肺気腫を患い、もうあの距離を行進するのは無理だと言った。私は、車に乗って行進したらどうかと言ったが、祖父の返事はこうだった。「絶対に乗らん!」

勲章を身に付け誇らしげな祖父トム・オマエ

私のおじいちゃん、トム・オマエは、2018年に93歳で亡くなり、祖母のメアリーもそのすぐ後に亡くなりました。おじいちゃんは肺気腫を患い、何年にもわたる闘病生活を送っていたので、心の準備はできているようでした。そして私たちも、与えられた時間のおかげで、祖父にきちんとお別れをすることができました。それでも、祖父に聞いておけば良かったと思うことがたくさんあります。祖父が、その人生でどれほどの困難に直面しなければならなかったかを理解した今、より一層そう思うのです。

私は今、近々日本に移住する準備をしており、日本で私の祖先や文化、そして日本語を学ぶことをとても楽しみにしています。曾祖父のショウジロウや親戚について、さらに情報が見つかることも期待しています。またそうした中で、私たち家族の長い旅が、一つの節目を迎えられたらと願っています。

*この作品のオリジナル版はwww.nikkeiaustralia.comに掲載されました。

 

© 2021 Shey Dimon

星 25 個

ニマ会によるお気に入り

Each article submitted to this series was eligible for selection as favorites of our readers and the Editorial Committees. Thank you to everyone who voted!

Australia family internment Japan World War II

このシリーズについて

「ニッケイ物語」シリーズ第10弾「ニッケイの世代:家族とコミュニティのつながり」では、世界中のニッケイ社会における世代間の関係に目を向け、特にニッケイの若い世代が自らのルーツや年配の世代とどのように結びついているのか(あるいは結びついていないのか)という点に焦点を当てます。

ディスカバー・ニッケイでは、2021年5月から9月末までストーリーを募集し、11月8日をもってお気に入り作品の投票を締め切りました。全31作品(日本語:2、英語:21、スペイン語:3、ポルトガル語:7)が、オーストラリア、カナダ、日本、ニュージーランド、ブラジル、米国、ペルーより寄せられました。多言語での投稿作品もありました。

このシリーズでは、編集委員とニマ会の方々に、それぞれお気に入り作品の選考と投票をお願いしました。下記がお気に入りに選ばれた作品です。(*お気に入りに選ばれた作品は、現在翻訳中です。)

編集委員によるお気に入り作品

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