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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2021/4/7/pat-hagiwara/

パット・ハギワラさん

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パット・ハギワラさん

「僕はラッキーだったと思いますよ。アラスカで生まれてからずっとね。小さなコミュニティだったから、お互いをよく知っていて、学校なんかも幼稚園から高校まで1つの校舎でね。日本人が9軒か10軒集まっていたメインストリートのステッドマン街では、冬は店を閉めて、子供たちが坂の上からそりで滑ってくるんですよ」

まるで昨日の事に様に楽しそうに話すのは、パット・ハギワラさん(84)。アラスカ州兵軍から442部隊に送られた4人の二世兵士の1人だ。物静かな日常を好む、穏やかな日系人というイメージを受ける。

長野県生まれの父は1907年に1度アラスカに来たが、16年に日本へ帰り滋賀県生まれの母と結婚した。2年後に再び小さな漁港、ケチカンに一足先に戻り、「アラスカ・ホーム・ベーカリー」というパン屋を始める。母はその後、3週間船酔いに悩まされながら父の後を追って来る。キッチンを手伝いながら4人の子供を育てた。

次男のハギワラさんは父の仕事の手伝いから逃げてばかりいた。「兄や妹、弟は手伝っていましたけど、僕は鉄板に油を塗ったりするのなんか、できるだけ避けていましたよ」。だが高校卒業後ポートランドの専門学校へ3カ月通った時と戦争が勃発するまでは、家族から離れたことのない、結束の強い家族の中で育った。

真珠湾攻撃の3カ月ほど前、アラスカ州兵軍からの呼びかけに応募した。チルクート・バラックスという基地に駐屯した日系人はたった4人。6カ月もすると上官代理に呼び出された。「海軍大佐からの指令で君たちを移動することになった」と眼に涙を溜めての報告であった。「上官代理は(日本人だからといって移動させることを)初めは拒んだけれど、多分自分が指令を伝えなくても他の誰かがするだろうと、不本意ながら我々4人を移動の命令を発すると言われました」

輸送の途中でまず、ケチカンに停まった。船から降りなかったが桟橋ではコミュニティの皆が出迎え、パットさんたちを一目見ようと行ったり来たりしている。次に深夜にアネット島に着いた。ここはケチカンの日系人の中でも、一世の男子だけが隔離されていた場所だ。「指揮官に、父に会うために船から下りる許可を貰おうとしたら、『誰も降りてはいけない』という、きつい指令が出ました。と、その時突然、ジープがすごい勢いで走って来てスピーカーで僕の名前を呼ぶんですよ。タラップに出てみると、父がいました」と目を細めて回顧する。

最初の駐屯地はフォート・ルイスと思われた。ところが着いてみると日系人はすでにヨーロッパに向けて送られていたため、いられないことが判明。次の移動先への出発前、3日間のパスをもらった。兄がワシントン大学に通っていたため会いに行き、夕食を共にしようと誘うと6時の門限に間に合わないからだめだと言う。「日本人の門限は6時だったんですよ。仕方がないから、日本町のジャクソン街へ行きました」

この兄、妹と母はその後ミネドカ(*)の収容所に連行された。父はアネット島から、モンタナ州、ニューメキシコ州ローズバーグの収容所と移動を繰り返した。最後まで家の片付けをしていた弟マイクさんはハギワラさん同様442部隊に志願し、イタリアの戦線で片足を亡くしてしまう。結局家族全員が顔を合わすことは二度となかった。

フォート・ルイスから、イリノイ州フォート・シェリダンに移ったハギワラさんは、行進時の整列指導をするインストラクターの任務を得た。42年当時まだ行なわれていたフットボールのハーフタイムの行進に、シカゴ・スタジアムまで借り出されることもあった。そのうちシカゴ大学に通っていたミサコさんと知り合い、42年10月軍にいながら結婚する。

ミサコさんはワシントン州ワパト生まれだが、ワシントン大学から学業を続けるため内地に移っていた。毎週土曜日にハギワラさんは軍の用事でシカゴ市内に出かけ、妻を訪問。幸い1年と2カ月はフォート・シェリダンに留まった。

ところがその後ハギワラさんは、ミシシッピー州のキャンプ・シェルビーの訓練所から442部隊の補充兵としてヨーロッパヘ向かう。所属は司令部、第2大隊第3分隊。大西洋を渡るのに敵の駆逐艦を避けるため、ハギワラさんの乗った護衛艦はジグザグを繰り返し、3週間かかり北アフリカに上陸した。44年5月イタリアのソレノでは待機中、442大連隊の第100歩兵大隊が休憩に寄り、ヨーロッパ戦線の実情を語るのを聞いた。

44年7月4日の早朝イタリアで弟の負傷の情報が入り、病院で対面した。弾幕の雨に合い両足をやられた弟を背負い、ハワイの佐藤さんと言う人が自らも危険にさらしつつ救助してくれた。「片足は榴散弾の破片がまだ一杯入っていたのですが、『こっちの足に比べたら何でもないさ』と言って、切断された足を見せてくれたんです」。ハギワラさんには言葉がなかった。

「ハワイに行った時、弟を助けてくれた佐藤さんを探して一言お礼が言いたかったんですが、州の議員になっていた佐藤さんは電話にも出てくれないんです。後で分ったことは、佐藤さんは戦後売春のトラブルに巻き込まれて一切のコミュニケーションを絶っていたらしい」と笑って説明する。

1945年7月4日、除隊したハギワラさんは妻の待つシカゴへ直行した。10カ月の娘に初対面。一緒に住んでいた妻の家族はワパトへ戻り、ハギワラさん家族は中古車を購入しシアトルへ向かった。

「仕事を探そうと思ったら妻に、『ノー、大学に行ってください。行かなかったら私は子供を連れて実家に帰ります』と言われてワシントン大学で電気工学を学びました」と笑う。卒業後ボーイングでエンジニアとして36年働けたのは機転の利く妻ののおかげだ。

父は戦争から引き揚げてすぐの11月に亡くなった。弟に知らせたが帰還途上で連絡がつかず、葬儀の翌日帰ってきた彼はショックからなかなか立ち直れなかった。その弟も、36歳の誕生日を迎えた3日後には他界している。

アラスカの家には父の死後行った。何も残っていなかった。「空き巣に入られ、せっかくとっておいたもの、全て持っていかれました。スーツケース、洋服、写真。僕のアルバム一つだけ残っていました。何もない家を見るのは辛かったですね。もう、『ホーム』ではなくなってしまった」。そして、パン屋を継ぐ者がなくなりパン屋も売ってしまった。

それでもハギワラさんは、過去を振り返ってみて何も恨みはないと言う。どこに行っても人々に、人間として敬意を払われ、ラッキーな人生という。特に少年時代、ケチカンの仲間とその町ぐるみの付き合いを経験できたことに感謝している。

毎年のケチカンのピクニックにはアラスカはもとより、ワシントン、オレゴン、カリフォルニア、ミズーリ、ハワイ、アイダホ州から多い時で800人も集まる。朝から晩まで出たり入ったりだが、当初の150人からこれだけに増えた。「でも、我々4人ももう80歳を過ぎているのでね、若い人たちがプランしてくれたらいいんだが」と言いながらも、時代の流れを受け入れるしかないと感じている。「ケチカンに対する思いは僕らとは違うのでしょう」

「戦争についてどう思うか」の問いに、「年を取るに連れて、もっと平和な解決策を考えますね。僕は鉄砲が嫌いだ。人に向けて銃を放つ機会がなくて本当に良かった。ピーター・フジノのように、清掃中に誤って打たれて命を落とした人もいる。愛国心と言うのかなぁ。ボランティアで州兵軍に応募したんだから。みんな耐えるものなんでしょう。でも日系人の態度は立派だった。引き下がることは絶対なかったし、我々は何かを成し遂げた。だけど記憶も薄れてきましたね」と答えるハギワラさんも、ケチカンの記憶が薄れることはない。小さな漁港の日系コミュニティで育った彼は、平凡な日常こそが幸せであることを知っている。

*ミネドカは、当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

 

*本稿は、2003年『北米報知』へ掲載されたもので、2021年3月28日に再び『北米報知』へ掲載されたものを、許可をもって転載しています。

 

© 2003 Mikiko Amagai / The North American Post

第442連隊戦闘団 アラスカ州 軍隊 (armed forces) ケチカン パット・ハギワラ 退役軍人 (retired military personnel) アメリカ合衆国 アメリカ陸軍 退役軍人
このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。

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執筆者について

東京都出身。2001年から2005年まで北米報知でジェネラルマネージャー兼編集長を務める。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。シアトルの二世退役軍人のインタビューが、最も心に残っているという。昨年11月、44年のシアトル生活を終え、現在は東京在住。

(2021年1月 更新)

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