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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2021/3/24/art-susumi/

アート・進(ススミ)さん

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「恐くはなかったですよ。戦争で周りに死んだ人を沢山見ていましたからね」と語るのは22歳で葬儀屋になったアート進(ススミ)さん。亡骸(なきがら)と同じ屋根の下で眠るのは恐くなかったかの問いの答えである。第2次世界大戦では442連隊部隊で活躍し、ブロンズ・スター賞を受けたススミさんは全米でも数少ない、ワシントン州では唯一の日系葬儀屋のディレクターを43年務め、91年にそのERバターワース葬儀社を退職した。戦争が、若かったススミさんのその後の人生に少なからず影響していることは事実だ。

ススミさんは戦前のシアトル市日本町(8番街とワシントン通り)、現在の日本館付近に生まれる1。父親は福岡、母親は名古屋出身。大恐慌後の1930年代の幼少時、父はジョージタウン(シアトル市南)で軽食・ワッフルハウスを営み、母は白人の家のメードを務めた。その後家族はウェスト・シアトルに移り、戦争勃発まで小さな花屋を経営。41年にウェスト・シアトル高校を卒業してからは父の仕事を助けた。

ススミさん一家はシアトルの他の日系人同様、ピュアラップの仮収容所からミネドカ2の収容所に移される。ススミさんはそこで軍隊に志願し、442部隊の最初の兵士としてミシシッピ州ハッティズバーグで13週間のトレーニングを受けた。

「ハワイから来た日系人とは折り合いが悪く、仲良くなるのに何カ月もかかりました」と、ススミさんは当時を振り返る。「でも、アーカンソー州ローワーの収容所を訪問したりして、だんだん打ち解けていきました」。

6週間もトレーニングで一般社会から隔離されていた日系兵士たちは、ダンスパーティなどで日系人収容所を訪問。ハワイにはなかった収容所を目の当たりにし一緒に行動したことで、当時のハワイ兵の理解が高まっていった。ススミさんは現在も彼らと連絡を取り合い、ハワイに会いに行くのを楽しみにしている。

1944年にカノン・カンパニーと呼ばれる大砲部隊に所属したススミさんはラジオマンとして40ポンドのラジオを運ぶ係になる。日系兵士を乗せた船団は大西洋を28日間かかって横断し、イタリアのナポリに上陸。その後アンジオ(ピサ付近)の戦闘に突入した。「重かったですよ。当時のラジオは大きくて。他の荷物を持ち、その上40ポンドのラジオを運ぶのですから」と語る小柄なススミさん。「我々は指示に従うしかなかったです。上の人たちはどの方面に向かっているとか方針とかわかっていましたけれど。若かったしね、考える暇もなかった」

その後第442連隊部隊は北上し、「ロスト・バタリオン」で知られるフランスの東でドイツ軍に包囲されていたテキサス部隊の救助に加わるが、そこでススミさんは負傷してしまう。たこつぼ壕に隠れてライフルマンの護衛をした時、上から倒れてきた木や落ちてきた榴散弾の破片が脊椎の脇に刺さったが、危うく一命は取り止めた。そして自分の命が危機にさらされながらも仲間の命を救うために尽くした。

この功績が称えられて後にブロンズ・スター賞を受賞するが、いくつもの細かい破片は未だに体の中に残っている。「脊髄をほんの少し外れた所だったので助かりました。医者には取り除く方が危険といわれました」と側に座っている愛犬を抱きしめる。

800人の死傷者が出たがススミさんを含むこの時の442連隊の兵士たちはテキサス兵200人を救助しテキサス州名誉市民となった。「我々はやるべきことを全うした。それを誇りに思っています」と笑顔で語るススミさんは自分はラッキーだったと思い起こす。

「戦争を通して、お互いを良く知り合えた。生き延びる事以外何も重要でない状況に置かれて、我々は一緒だったから通り抜けられたのだと思う」と戦友の大切さを説く。

I - COMPANY(BARマンという、ライフル部隊)は生き残りが4人しかおらず、帰国後のパレードの際、大佐に「残りの兵隊はどこにいるんだ」と聞かれて「死亡か病院です」としか答えられなかった。

終戦後、家族はミネドカ収容所からレントン市ハイランド地区の仮説に引き上げ、間もなくして父親が倒れた。2度目の心臓発作だった。「僕は若かったから、人が死んでまず、何をしてよいかわからなかったんです」。医者に紹介された小さな葬儀屋のディレクターが親切に父を葬ってくれたことが心強かった。

葬儀の後、ディレクター、モーリス・ウォーカー氏に日系コミュニティーに宣伝する事を提案したところ、同社に住みこみで働く事になった。戦後の混乱期、特に収容所から帰った日系人には仕事が少なかった時代に仕事があること、雑用の他に救急車を運転できる事が、22歳の青年には魅力だった。「サイレンや赤いライトがくるくる回りながらの救急車をビュンビュン飛ばして走らせるのは、骨の折れる仕事の見返りとしては最高だった」と得意そうに語る。

1年ほどしてエンボルム(薬品、香料などで死体に防腐装置をする)をマスターする事に決め、シンシナティーの専門学校へ向かった。軍隊から支給された奨学金で49年に優等生で卒業した。同校の先輩にERバターウォース社のマネージャー、ジム・マーフィー氏がおり、後に東パイン通りの同社で働く事になり40年以上この道を極めた。

現在でも、日系、中国系の依頼があると進んで手助けしている。過去5千件の依頼の内、4千5百件は日系だ。「最初の頃は友達の親やその世代の葬儀で、別にただ仕事と思ってやっていたが、年と共に同世代の友達を葬るようになってきて辛かった」と言う。

日系の葬儀はキリスト教も仏教もある。昔は自宅で通夜をしたため、棺が入らないとドアのちょうつがいをはずしたり、窓から入れたりしたこともある。火葬、土葬、行列など、それぞれのやり方があり、死者を想い遺族の要望に応えて一つ一つ誠意を持って取り組む姿勢が、ススミさんが43年間の葬儀業を通して日系のコミュニティーから慕われてきた理由だろう。

ススミさんの人柄の評判は日系だけに留まっていない。今年、米国傷痍軍人(ADV)の中佐に日系人として初めて任命された。

収容所から引き上げてきて仕事の選択肢がなかった時代に比べて、現在の子供たちは幸せだとススミさんは言う。「我々の世代が作った下地(日系人が受け入れられる)があり、仕事の分野に制限がない。やりたいことに対する親の理解や支援もある。自分たちの時代に広げられなかったことに挑戦している三世たちに誇りを持っています」と軍人というより商人の応援の言葉だ。

「葬儀屋になったのは戦争に行ったことが引きがねとなっていたのか」の問いに、「葬儀屋は戦争と違って亡骸だけではなく、遺族の人との対応する(自分の父の時がそうであったように)」との答えが返ってきた。戦争で手厚く葬れなかった戦友への想いに加えて、残された人に対する思いやりが、小柄なススミさんの満面の笑顔から伝わってくる。

注釈:

1. 2020年現在では日本館は閉館している。

2. ミネドカは、当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

 

*本稿は、2003年『北米報知』へ掲載されたもので、2021年2月23日に再び『北米報知』へ掲載されたものを、許可をもって転載しています。

 

© 2003 Mikiko Hatch-Amagai / The North American Post

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このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。

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執筆者について

東京都出身。2001年から2005年まで北米報知でジェネラルマネージャー兼編集長を務める。北米報知100周年記念号発刊。「静かな戦士たち」、「太平洋(うみ)を渡って」などの連載を執筆。シアトルの二世退役軍人のインタビューが、最も心に残っているという。昨年11月、44年のシアトル生活を終え、現在は東京在住。

(2021年1月 更新)

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