ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2021/2/26/shinichi-kato-8/

第8回 広島の親族は?

かつての住所を訪ねると 

「米國日系人百年史」のなかの自己紹介ともいえるプロフィール記事と、1982年2月10日の中国新聞社の訃報(死亡記事)などから、加藤新一の人生が要約できたところで、広島出身で最後は故郷で一生を終えた彼の血縁者や、彼を知る人を改めて探すことにした。

加藤の、アメリカ生まれのひとり息子は 、日本で高校を卒業した後アメリカに戻ったので、直系の親族は日本には見当たりそうになかった。そこでまずは加藤が暮らしていたと思われる、訃報にある住所を訪ねることにした。2019年4月のことである。

加藤のかつての住まいは、広島市の中心部から北西に2キロ余りのところに位置する。JR山陽本線の横川駅から歩いて数分、広島電鉄の路面電車の横川一丁目駅からはすぐ近くのところだった。

広島市のJR横川駅の前。原爆投下で当時の横川駅は消失した。

市の中心部に宿泊していた私は路面電車を乗り継いで、横川一丁目で降りて、該当すると思われる場所を確認したうえで、少し周辺を歩いてみた。公園があり、事業所と住宅が入り混じっているような地区だった。

訃報にあった住所はその後住居表示を多少変えたようだったが、おそらくここだと思われる場所は駐車場になっていた。「かつてこのあたりに住んでいた加藤さんを知りませんか」と、近くの家で尋ねてみようと思い、一軒の民家の玄関のベルを押したが、応答はなかった。続いて倉庫のような事業所で尋ねたが「交番で聞いた方がいい」と言われた。

田舎ならともかく都市の交番できいてもわかるはずはないと思い、目についた小さな雑貨屋に入り若い女性にだめもとで尋ねてみると、店の大家さんなら知っているかもしれないと言い、親切に大家さんを呼んできてくれた。しばらくして高齢の女性があらわれ、「詳しくはないが加藤さんなら知っています」と、昔を思い出してくれた。親しみを込めたその口ぶりから加藤新一に対してもいい印象を抱いているようだった。


菩提寺の墓はすでに移動され 

しかし、加藤さんの親戚がどこにいるかなどは知らないようだった。そこで、ひとまずその界隈を離れ、死亡記事で「葬儀が行われた」とされる円龍寺という寺へ向かった。あとで知ったことだが、広島県の西部地方は「安芸門徒」と呼ばれる門徒による浄土真宗が栄えてきたところで、「寺町」という一帯には、こうした浄土真宗の寺が集まっていて、円龍寺もその一つだった。

立派な本堂につながるコンクリート造りの建物の側面にある玄関から声をかけると、中年の婦人が出てこられた。急な訪問を詫びたあとで事情を説明し、加藤新一の墓とその墓守について尋ねた。すると、親切にも現住職の「先代の妻」と思われる婦人に取り次いでくれた。わざわざ玄関まで出てきてくれた高齢の婦人は、

「加藤さんのお墓は確かにあったんですが、近くに面倒を見る人がいなくなり、親戚の人が引き取られました」と、残念そうに教えてくれた。

親戚の人は吉田さんというらしく、連絡先がわかるだろうというと、奥に戻ってさっそく調べて電話をしてくれた。が、うまく連絡は取れなかったようだった。もう少しのところだったのに、という思いではあったが突然の訪問にもかかわらずていねいに応対してもらい感謝の気持ちで寺をあとにした。

その足で、市内の図書館で加藤のようにカリフォルニアへ渡った広島県人のことを調べようと関係書籍を探したが、たいした成果はなかった。翌日再び、加藤宅のあった周辺で聞き込みをすることにした。


温厚で人望のある人

広島市内には路面電車が走っているので、近距離の移動は便利である。が、いくつかのポイントを回るには、起伏のないまちなので雨でも降らなければ自転車が便利そうなのは、行きかう自転車の数をみればよくわかる。幸い、市内にはレンタルの電動自転車のシステムができあがっていて、さまざまなところに自転車がプールしてあり、都合のいいところから借りだし、好きなところで返却できる。観光で移動するにも便利なようだ。

仕組みを覚え、さっそく利用することにした。最初に加藤が、原爆投下時にいたという西広島駅方面へとペダルをこぎ、しばらくあちこち回りながら、前日と同じ元加藤宅のあった場所へ来た。近所の人に聞き込みをするなかで加藤とかかわりのある二人の女性にであった。

ひとりは、母親が生前の加藤のことを知っているらしかったが、その日は会うことができなかった。もうひとりは、Kさんといい、若いころ加藤の長男のケネス(直)が彼女の兄と親しくて、よくKさんの家にも遊びに来ていたという。

若いころのKさんは、加藤について、「温厚な人でした。人望があって、戦後、教育委員会の委員が選挙で選ばれた時はその候補になって、私の親も加藤さんを応援しましたが、もう少しというところで落選してしまったと記憶してます」と、懐かしそう話した。Kさんの話からも加藤は、周囲の人に親しまれていたようだった。


「加藤新一は私の伯父です」

親戚について尋ねると、「戸坂(へさか)の方に妹さんがいました」と、教えてくれたが連絡先などはわからないという。

円龍寺での話でも、親戚は戸坂の方だといっていた。調べてみると戸坂というの地名の場所は、広島市の中心部から7キロほど北東に行ったところだった。吉田という名前と戸坂を頼りにネットを中心にあれこれ調べていると、それらしき人が浮かんできた。電話番号もわかったので、果たしてそれが加藤の親戚の吉田氏かもちろんはっきりしないが、とにかくかけてみた。しかし何度電話しても呼び出してはいるが応答はない。

こうなると、案ずるより産むがやすしで、現地に行ってまた探すしかない。が、この時はもう広島を離れなければならなかったのであきらめた。

それから11ヵ月後の2020年3月、再び広島を訪れる機会ができたので、吉田氏を探すことにした。市内から約20分、あたりをつけた戸坂の住所へレンタカーでつけると表札には確かに吉田とある。大きな家の前の駐車場に車をとめインターホンを何度か押した。が、返事はなく人の気配も感じられない。

あきらめて車に戻ろうとすると、70代くらいの男性がこちらに向かってきて「何か用ですか」という。もしやと思い「失礼ですが、加藤新一さんのご親戚の吉田さんではありませんか」ときくと、「そうですが」という。訪問の目的を伝えると「加藤新一は私の伯父です」というではないか。

おもわずうれしくなった気持ちを隠せずに自己紹介し、加藤新一についての取材をしていてようやくここまできた過程を話し、ぜひ話をきかせていただけないかと頼んだ。

その時すぐにというわけでなくても、所在が明らかになったので、別の機会でもありがたかったが、吉田氏はその場で受けてくれた。すぐ近くにある吉田さんのオフィスに案内され話を聞かせてもらう運びとなった。少し話をしたのちに昼時になったので、吉田さんの勧める近くのお好み焼き屋で腹ごしらえをして、ふたたび話を続けることになった。

(敬称略)

第9回 >>

  

© 2021 Ryusuke Kawai

アメリカ ジャーナリスト ジャーナリズム 一世 世代 平和運動 広島市 広島県 戦後 新一世 日本 社会的行為 社会運動 移住 (immigration) 移住 (migration) 移民 積極行動主義 第二次世界大戦
このシリーズについて

1960年前後全米を自動車で駆けめぐり、日本人移民一世の足跡を訪ね「米國日系人百年史~発展人士録」にまとめた加藤新一。広島出身でカリフォルニアへ渡り、太平洋戦争前後は日米で記者となった。自身は原爆の難を逃れながらも弟と妹を失い、晩年は平和運動に邁進。日米をまたにかけたその精力的な人生行路を追ってみる。

第1回から読む>>

詳細はこちら
執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

様々なストーリーを読んでみませんか? 膨大なストーリーコレクションへアクセスし、ニッケイについてもっと学ぼう! ジャーナルの検索
ニッケイのストーリーを募集しています! 世界に広がるニッケイ人のストーリーを集めたこのジャーナルへ、コラムやエッセイ、フィクション、詩など投稿してください。 詳細はこちら
サイトのリニューアル ディスカバー・ニッケイウェブサイトがリニューアルされます。近日公開予定の新しい機能などリニューアルに関する最新情報をご覧ください。 詳細はこちら