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ロータス・ロング:短命に終わった銀幕女優の人生

ライアン・マーフィーが近年製作したNetflixのドラマミニシリーズ「ハリウッド」では、ハリウッドの本当の物語を伝えるために、条件が違っていたら起きたかもしれない歴史を描いている。その一つは、(ミシェル・クルージックが演じる)アンナ・メイ・ウォングの悲しい物語である。ウォングは1930年代の優れた映画俳優であったが、アジアの血を引くため、型にはまった役ばかりを押し付けられた。紋切り型の「ドラゴン・レディ」(猛女)役を与えられ、もっとふさわしい役からは外された。特に、パール・S・バックの中国が舞台の小説「大地」の舞台化では、東洋人に扮した白人俳優にその役を奪われた。だが、戦前期のハリウッド映画におけるアジア系アメリカ人俳優はアンナ・メイ・ウォングだけではなかった。無声映画のスターには、ツル・アオキ(青木鶴子)、日本生まれのトシア・モリ(市岡俊恵/森俊惠)、2世俳優のアイリス・ヤマオカがいた。

ロータスロング

こうした初期のアジア系アメリカ人女優のなかでも、特に興味深いキャリアを持つのがエキゾチックな名前を持つロータス・ロングである。第二次世界大戦前には、中国人や太平洋諸島系の一連の役を演じていたが、部分的に日本人の血をひくために、真珠湾攻撃以降は俳優の仕事が全くなくなってしまった。戦後、2世俳優としてハリウッド映画に真っ先に復帰したが、東京ローズ役を演じたあとは、再びスクリーンから姿を消した。

後にロータス・ロングとして知られることになる女優は、1909年7月にニュージャージー州アトランティックシティに生まれた。出生名はパール・シバタ。ロングは生まれについて多くの異なる、時として矛盾する話をしている。例えば、ある時点ではこう言っている。「フランス人の母と欧亜混血の父は、フランスからアメリカに向かう船上で出会い、その後ニューヨークに定住しました。父はコロンビア大学で工学を学び、休暇をアトランティックシティで過ごしました」。また、自分にはハワイアンの血も流れている、とも言っていた。

実際にロングの母ブランチ・レレウ(またはレレン)はフランスからの移民の娘としてペンシルベニアに生まれた。父ウシロウ・シバタは生粋の日本人移民であり、アトランティックシティの商店の従業員として働いていた。ウシロウが娘と過ごした年月はあまり長くはなかった。若き日のパールが10歳になる頃には、母と継父フランク・K・スエトミと一緒にロサンゼルスで暮らしていた。スエトミも日本からの移民で、ロングは母の再婚以降、パール・スエトミとも呼ばれた。1927年、わずか17歳にしてパールは、カナダ出身で映画会社に勤めるカメラマン、ジェームズ・ノットと結婚した。

この頃、パール・シバタ=ノットは、ロータス・ロングという名前でハリウッドでのキャリアを積み始めていた。正確に、いつ、どのように始まったかは、情報源によってまたも異なる。ある情報には、近代ダンスの開拓者ルース・セイント=デニスのグループのダンサーとして仕事を始め、いわゆる「東洋的な」曲を踊った、とある。他の情報では、フォックス映画と契約し、1929年の映画『Joy Street』(原題)に出演したとされるが、出演者リストには入っていない。(ただし、無声映画の探偵スリラー『The Peacock Fan』(原題)ではクレジットが入っている)さらに別の情報では、10代だったロングの最初の仕事はエキストラだったとされる。(映画会社で働いていた継父を通じての話だと思われる)

いずれにせよ、ロングは映画製作者ロバート・フラハティに見いだされる。製作した映画で最もよく知られる作品は1922年の長編ドキュメンタリー『極北のナヌーク』であるフラハティは、ドイツの著名な監督F・W・ムルナウとタッグを組んでタヒチの真珠取り潜水婦の映画企画を立ち上げる。フラハティはロータス・ロングが同映画に主演すると発表し、ロングは撮影のために1929年7月、タヒチへと向かった。

しかし、ロングのタヒチ行は頓挫する。フラハティとムルナウは映画企画のことで仲たがいし、ムルナウはポリネシア系の女優アンヌ・シュヴァリエを見つけ、主演女優の座に据えた。(この企画は最終的に1931年の映画『タブウ』となり、ほぼ全てをムルナウが仕切ったことになっている)役を降ろされたロングは、撮影現場を離れ、アメリカに帰った。1929年8月サンフランシスコに戻ると、ロングは自らを「パール・S・シバタ(ロータス・ロング)」と名乗るようになる。

その後、ハリウッドでは音声付の映画へと技術が進むが、大恐慌時代が訪れ、ロングは映画の仕事からあぶれてしまう。ロング(本名パール・ノット)はパサディナ・ジュニア・カレッジに通いだし、フランス人とドイツ人のグループと交流した。地元の演劇学校(ニーリー・ディッキンス・ハリウッド・コミュニティ・スクール・オブ・ザ・シアター)に通い、演技の経験を積む。ロングは、同校が1931年秋と1932年春に製作した寸劇に出演している。

「パール・スエトミ」日系アメリカ人ニュース、1937年1月1日

1932年、「ニセイ・プレス」は「パール・スエトミ」がロータス・ラングとしてMGMと長期契約したと報じている。MGMはロングに、欧亜系、中国系、太平洋諸島系などのさまざまな役を与えた。ロングの最初の重要な役はMGMの1933年の映画『エスキモー』であった。アラスカで撮影され、監督はW・S・ヴァン・ダイクであった。ロングにはイヌイットの女性アイヴァの役があてがわれ、アラスカ出身の俳優マラ(レイ・ワイズ)と共演した。この映画は十分な成功を収めため、1935年、ロングにはハーマン・メルヴィルの恋愛小説「タイピー南海の愛すべき食人族たち」に触発され、ポリネシアを舞台とする恋愛映画『南海のペーガン』への主演の話が舞い込んできた。ジョン・ファロー脚本、リチャード・ソープ監督の『南海のペーガン』は、タヒチをロケ地として撮影された。(両映画は、当時の映画としては珍しく、現地の言葉のセリフが入っている――ただし、真正性、正確さには疑問が残る)ロングは、タヒチに向かう前に、B級映画会社モノグラムスタジオ製作の『Mysterious Mr. Wong』(原題)に出演した。この映画でロングは、東洋人に扮したホラー映画の人気俳優ベラ・ルゴシが演じるMr. Fu Wongの姪、ムーンフラワー役を演じた。また、同年モノグラムが製作した『三人の死刑囚』でも役を得ている。

翌年、ロータス・ロングは主役級の中国人女性の役を演じた。例えば、1937年の『China Passage』(原題)では軍司令官の妻リア・センの役を演じている。ロングはMr. Wongシリーズの他の作品にも、中国人探偵に扮するホラー映画俳優ボリス・カーロフと共に出演している。1940年の『Phantom of Chinatown』(原題)では、Mr. Wong役をカーロフに代わり、ケイ・ルークが演じた。これはアジア人の主役をアジア系アメリカ人が演じた珍しい例である。

ロータス・ロングが演じるウィン・リーは、自分のボスを殺した犯人を探す探偵に貴重な手掛かりを与える。スエトミは、ロータス・ロング名義以外にも、カレン・ソレルの名前で2本の映画に出演しており、その1本は日本人スパイを演じるピーター・ローレが主演した『Mysterious Mr. Moto』(原題)である。ロングの戦前最後の出演作である1941年の喜劇『For Beauty's Sake』(原題)では、美容院のスタッフのヘレナ・クオ役を演じている。

真珠湾攻撃が起きると、ロータス・ロングはスクリーンから姿を消した。(リパブリック・ピクチャーズの『フライング・タイガー』で中国系孤児院の院長役という端役はあった。この映画は1941年に製作されたが、翌年初頭まで公開されなかった)ロングはジミー・ノットとの結婚後、映画界からの引退を決めたと言っているが、実際には、戦争が始まった時にはすでに結婚してから14年たっていた。日本人の血を引くために解雇されたのかもしれないが、もしくは、ロング自身がおとなしくしておくべきだと感じたのかもしれない。

ジェームズ・ノットは戦争中も映画会社でキャメラの仕事を続けた。妻のロータス・ロングもおそらく一緒にロサンゼルスに住んでいた。ロングが日系人退去命令の出た区域を離れたという確たる証拠はなく、パール・ノット(ロータス・ロング)は大統領令9066号に基づいた米政府による強制退去を何とか逃れたようだ。その理由が、ロングの祖先の人種が混ざっているからなのか、人種が特定できないからなのか(1940年の国勢調査では「白人」と区分して提出されていた)、あるいは、白人アメリカ人との婚姻なのか、分からない。

1945年の秋、ロングはパラマウント・ピクチャーズの製作者ウィリアム・パインとウィリアム・トーマスに抜てきされ、同社製作映画『Tokyo Rose』(原題)の東京ローズ役を演じている。(この映画に関しては当サイトの別コラムに詳しく書いた)これは映画界への復帰として珍しいものとなった。真珠湾攻撃以降の初の日系人俳優のハリウッド映画への出演であるということだけではなく、この抜てきにより、他の映画製作者たちが、その後ロングへの配役を検討することをやめてしまった、という点においてもである。

映画会社の広報担当者は、ロングが夫を訪ねて撮影所に来た時に、出会った製作者はその場ですぐに、ロングが東京ローズ役の理想的な候補になると気が付いた、と記述している。ロングにとっては、初の日本人役であり、悪役でもあった。何がロングにこの役を引き受けさせたのであろうか。ロングは取材に答えている。「家事に飽きていましたし、良い仕事だと思いましたので」。裏切り者としての東京ローズにつきまとう悪評にも関わらず、ロングは、東京ローズを演じることを何とも思っていなかった、と言う。ただの仕事のひとつと考えていたのである。実際にロングは別の取材で、「悪役とは考えたこともありませんでした。あとから多くの人に、あの役をよく演じたものだ、とは言われましたが」と言っている。

しかし、すぐに、家族と兵士の妻たちから、東京ローズを演じるロングを糾弾する、という非難の手紙の集中砲火を浴びた。新聞では、ロングの隣近所の子供たちが、通りを歩くロングの後をつけて、道行く人びとに「こいつがトーキョーローズだ」とふれまわった、と報じている。ロングはため息をつき、「映画の公開前でもそのような状況だったので……公開後に全国の映画館で私の顔が知れ渡った時には、どうなってしまうのだろう、と思いました」と言っている。 

結局、映画の題名を背負う主役であり、その声は映画を通して聞こえるものの、映画の最終編集版では、東京ローズとしてロングの姿がスクリーンに現れる時間は、ほんのわずかであった。映画評論家は、この役をよくぞ演じた、とロングを称賛したが、その登場時間はあまりにも短い、と難を付けた。

『Tokyo Rose』(原題)の興行成績は良かったが、その後も続く人種的締め出しに直面した。次作の『Rose of the Yukon』(原題・1949年)では役名のない「エスキモーの少女」という端役を演じた。これは、俳優としてのデビュー作『エスキモー』での役に戻った、とも言える。「バラエティ」誌ではロングの演技を「印象深い」と好意的な評を出しているが、シカゴ・トリビューンでは映画評をこうまとめた。「このB級映画には一貫性がある――最初から最後までダメだという一貫性が」。これがロングの最後の出演作になった。

演技から引退したあと、ロングは新しいプロジェクトに着手した。夫のジェームス・ノットと共に、タヒチに関する準ドキュメンタリー映画の脚本を書いた。2人はその後、クレイン配管社の財産の相続人である慈善事業者コーネリス・クレインと、この映画を共同製作している。フランスのコロニアル・メディカル・サービスとUCLAの太平洋熱帯性疾病研究プロジェクトの協力を得て制作されたこの映画は、タヒチの暮らしと音楽を描写しながら、処置をおこたると象皮病を引き起こす蚊媒介感染症のフィラリアと戦う現地の医師たちを主軸に置く。

このプロジェクトのおかげでロングは、最初の訪問から約25年ぶりに、タヒチに戻り、堪能なフランス語を使って現地の人びとと交流した。プロジェクトを進めながら、約20か月をタヒチで過ごした。フラハティとムルナウとの仕事で経験したものとは違うタヒチの本当のイメージや文化を表現したいと望んでいた。ノット夫妻はタヒチでスカウトした本職ではない俳優を起用し、釣り、歌、ギター演奏、カヌーでの航海などのシーンに出演してもらった。本人として出演した数名の白人医師を除いて、全ての出演者はタヒチの人びとであった。

当初『Raau Tahiti』(原題)(『Tahitian Medicine』英原題)と題されていたこの映画は最終的に『The Tahitian』(原題)という題で1956年に公開されている。評論家エドウィン・シャラートはロサンゼルス・タイムズにその「理想的な素人っぽさ」について好意的な評を寄せ、「素晴らしい景観の中、実に素朴な手法で興とサスペンスを生みだしている。引き寄せられる要因は、無限に広がる画の魅力にある」と称賛した。「バラエティ」誌は素人臭さを評価せず、現地の出演者の演技力の無さを難じている。

『The Tahitian』の後、ロングはハリウッドでの仕事をやめ、メディアへの露出が途絶える。後年、カリフォルニア州オレンジカウンティに暮らし、夫の死の1年後の1990年9月14日に当地で、息をひきとった。

 

© 2021 Greg Robinson

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執筆者について

ニューヨーク生まれのグレッグ・ロビンソン教授は、カナダ・モントリオールの主にフランス語を使用言語としているケベック大学モントリオール校の歴史学教授です。ロビンソン教授には、以下の著書があります。

『By Order of the President: FDR and the Internment of Japanese Americans』(ハーバード大学出版局 2001年)、『A Tragedy of Democracy; Japanese Confinement in North America』 ( コロンビア大学出版局 2009年)、『After Camp: Portraits in Postwar Japanese Life and Politics』 (カリフォルニア大学出版局 2012年)、『Pacific Citizens: Larry and Guyo Tajiri and Japanese American Journalism in the World War II Era』 (イリノイ大学出版局 2012年)、『The Great Unknown: Japanese American Sketches』(コロラド大学出版局、2016年)があり、詩選集『Miné Okubo: Following Her Own Road』(ワシントン大学出版局 2008年)の共編者でもあります。『John Okada - The Life & Rediscovered Work of the Author of No-No Boy』(2018年、ワシントン大学出版)の共同編集も手掛けた。 最新作には、『The Unsung Great: Portraits of Extraordinary Japanese Americans』(2020年、ワシントン大学出版)がある。連絡先:robinson.greg@uqam.ca.

(2021年7月 更新) 

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