ディスカバー・ニッケイ

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最終回 夢と孤独と望郷と‐森上助次の人生 

晩年の森上助次の書棚から(© 撮影・提供: Akira Suwa [諏訪徹])

20世紀のはじめ、アメリカのフロリダ州に日本人による入植事業があったことはあまり知られていない。「大和コロニー」と呼ばれた“日本人村”が生まれ、パイナップルや野菜作りが行われた。しかし厳しい自然条件や地価の高騰などで、コロニーは戦前に解体し、ほとんどの入植者は去っていった。

そのなかで最後まで現地にとどまり、取得した広大な土地を地元に寄付したことで、その名を現地に残した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、生涯独身で質素な暮らしをつづけ、日本に一度も帰ることなく1976年2月に89歳の生涯を閉じた。

森上は、どんな気持ちでなにを考えてひとり、縁もゆかりもない異国の地で孤独のうちにも夢を描いて生きてきたのか。それを探るために「孤独な望郷」と題し、これまで彼が日本の義妹一家に送り続けてきた大量の手紙を整理し、紹介してきた。あらためて、コロニーと森上の歴史を振り返り、膨大な手紙からひとりのアメリカ移民の心情をさぐってみたい。


動機は失恋から

森上助次は、日本三景のひとつ、天橋立に近い京都府与謝郡城東村(のちの宮津市)の農家の長男として、1886(明治19)年に生まれた。助次は、近くに住む鬼沢はつに思いを寄せ、あるとき結婚を申し込むが、はつの父親に反対され断念する。失意の助次に、このころ同郷のある人が、アメリカのパイナップル畑で働かないかと誘った。

渡航費用は貸してもらうことができ、現地で3年間働けば清算され、さらにボーナスももらえるという内容だった。フロリダがどんなところかもわからぬまま、助次は移住を決意した。1906年4月、19歳の助次は横浜港からシアトル行きの船に乗った。太平洋をわたり、そして東へ、南へと鉄路を進みようやくフロリダ南部へ到着した。すでにここには、コロニーを主導する日本人、酒井醸らが入植し活動していた。

宮津出身の酒井はニューヨーク大学に留学していたとき、フロリダでの鉄道拡張の事業にともない州内の開発が進むことを知り、ニューヨークで知り合った日本人や郷里の日本人などを集い、コロニー建設事業をはじめた。インテリや資産家の多いなか、英語も全くわからない助次は、亜熱帯の気候の地で蚊やヘビなどに悩まされながらも必死にパイナップルづくりに励んだ。

そして三年がたった。しかし、ボーナス支給を約束したスポンサー的な資産家は現地で病死、その結果約束は反故になり、金もなく日本に帰ることもできなくなった。帰国して再度はつに結婚を申し込もうという願いも潰えた。

現地にとどまるしかないと判断した助次は、その後、アメリカ人の家で住み込みで働き、やがて土地を借りて野菜栽培に乗り出した。これが軌道にのって渡米から6年後の1912年には1シーズンで1000ドルもの利益をあげた。このころから少しずつ土地を買うこともはじめた。


一時は大資産家に

野菜の生産・販売は、遠隔地への通信販売が成功して助次は大金を手にするようになった。このころフロリダでは、鉄道が南へと延び、マイアミからさらに離島のキーウェストまでつながった。ホテルも建設され、リゾートとしてアメリカ北東部の大都市の人々からフロリダは注目を集めるようになった。これによって地価は高騰し、助次は土地の売却や株式投資などでもうけ資産家になった。

しかし、土地ブームはやがて崩壊し、フロリダ州内の銀行は倒産、助次は預金のすべてを失ってしまう。再び無一文に陥った助次は、また農業に打ち込み、少しずつ回復していった。だが、その過程で胃潰瘍になり手術を受けることもあった。

助次の周辺では、入植した日本人は次々と農業をやめフロリダから去っていった。やがて日米間の緊張は高まり、開戦となるとかつての日本人のコロニーは接収されてしまう。助次も野菜の生産販売ができなくなり、資産は凍結されたので、仕方なく小作として働いた。


ひたすら手紙を書く

戦争が終わると、助次は再び野菜やパイナップルづくりをはじめ、同時に少しずつ土地を買い足していった。もはやかつてのコロニー関係者で土地を所有し、農業を続けた日本人は助次ともう一人だけになった。

戦争前に、宮津の父母は亡くなった。実家に残った妹が、結婚相手とそこで暮らすことになり、形の上で助次の実家は跡継ぎができたかたちとはなった。実家のことは気にはなったが、家督は継ぐ気はなかった。父母の墓参りに日本に帰ることはなかった。

実家との関係は薄れていった。しかし、戦時中に事故でなくなった助次の弟の米治と、残された妻と娘二人に対しては、ことさら不憫におもったのか、一家(岡本家)にあてて手紙を書き続け、さらに経済的な援助をするようになった。

独身のひとり暮らしをつづける助次は、読書家であり、また手紙を書くことを苦にしなかった。実家の妹や日本の知人に対しても、機会のあるごとに手紙を書いていたようだった、とりわけ岡本家へはひと月に何度も手紙を送ることがあった。

最初は義妹へ、その後二人の姪にもそれぞれ別に書き分けた。その内容は、1、フロリダでの農業と自分の暮らし 2、岡本家の現状について 3、故郷の思い出 4、将来の計画‐の4点が中心になっている。


なぜ日本に帰らなかったのか

フロリダの暮らしについては、どんな作物を植えて育てているか、台風の襲来でひどい被害をうけたとか、農作業の様子が事細かに記されている。また、孤独だが気ままな一人暮らしだということ、アメリカ人の友人たちに助けられていることなどを伝えている。

岡本家については、二人の姪の進学や就職などを心配し、ときに父親のように諭している。義妹に対しては家の問題についていろいろ相談にのり、真剣にアドバイスをした。その度合いは徐々に深まり、あるときは姪たちの父親になろうといった気持を伝え、義妹と一緒になることも考えていることがうかがえる。

その延長線上で、日本に帰ることや一家をアメリカに呼び寄せることも示唆した。とくに帰国については、なんどとなく「○○ごろには日本に行く」と、具体的に計画を立てている。日本で家をたてて一緒に暮らすことも考えていたようだ。岡本家との関係だけでなく、帰国については旅行の形でも計画している。そのために領事館に問い合わせて旅券を確認したりもしている。

しかし、しばらくすると思い直して、なかなか実行にうつさない。土地はあるが現金はないとしばしば言っている。だが、帰国するくらいのお金は所持していたのは間違いないし、土地を処分すれば可能だったろう。おそらく気持ちは揺れていたのだろう。ある程度の成功では郷里に錦を飾れないと思ったのか、不義理をした妹たちにあわす顔がなかったのか、いまさら帰っても浦島太郎のような気持ちになるのがこわかったか。いずれにしても、その理由ははっきりと岡本家に打ち明けられたことはなかった。


見果てぬ夢と現実

帰国とは別に、ある時期は南米に行ってもう一旗揚げたいと本気で伝えている。根っからの農業者なのだろう、アメリカの広い土地で農園事業にある程度成功したが、フロリダの開発は急速に進み、大自然を好む助次には徐々に環境が窮屈になっていったようでもある。一方で、トレーラーハウスを中心に暮らしていた助次の生活は、あまり近代的とは言えず、外見からすれば隠遁者のようになっていった。

独身でひとり暮らしだったことも影響しているのだろう。ライフスタイルは変わることなく、時代の流れとは別の流れのなかで暮らし、移住した当初の気持ちをつねに持ち続けている助次は、徐々に自分の精神の領域のなかで王国をつくっていったようにも見える。それを、まだ開発の余地にあふれている南米で実現したいと、もう一度夢を見ていたのかもしれない。

だが、夢は夢であり、実現することはなかった。しかし、助次のすごいところはこの開発、農園づくりの夢をフロリダの自分の土地のなかで実現しようと最後まで孤軍奮闘するところだった。日本の作物を育てようと「○○の種を送ってくれ」などと、頻繁に岡本家に手紙に書いている。将来、花が咲くこと、育つことを楽しみにしていた。明日死んでも、きょう種をまく、というようなことを言っている。


フロリダに名を残す

手紙では「思い出すのは故郷のことばかりだ」といい、故郷の景色、実家に植えてあった木々や作物のこと、食べ物のこと、幼い弟とのこと、祖父から聞かされた昔ばなし、宮津湾での釣りなどについて思いを馳せている。

さらに、初恋の人については、いつまでも思い出しては語っている。それだけでなく相手の住所を突き止めて、最終的には手紙のやり取りをするまでになった。しかし、両親についてはあまり触れられていない。父親には疎まれていたともうかがえる。

何度も病気で体調を崩し、ケガをし、ときに強盗に襲われることもあった。晩年は体の痛みを訴え続け、満身創痍で、もうだめだと弱音を吐くこともしばしばだった。それでも畑に出てパイナップルを植え、体の動く限り農作業をつづけた。

日本に帰ることは徐々に触れなくなり、最後は「私は老齢、天涯孤独。異郷の地で病むが、幸い食うには困らぬ。これ、皆、この国のお蔭だ。生あるうちに何とかお返ししておきたいと思う」と、アメリカに感謝しながら骨を埋める覚悟を示す。

その一方で、「アメリカに来て70年経った。努力はしたが、何一つ出来なかった。只、長い夢に過ぎなかった」とも嘆息する。

終ってみれば、誰もが人生は夢に過ぎなかったと思うのかもしれない。しかし、助次の場合は、いい夢を見たのではないのか。それが証拠に、「フロリダに自分の名前を残したい」という彼の願いは、彼が寄付した土地をもとにつくられた。「モリカミ博物館・日本庭園(Morikami Museum & Japanese Gardens)」という名でいまもフロリダの地に残っている。

(敬称略)

 

© 2020 Ryusuke Kawai

アメリカ ヤマトコロニー(フロリダ州) フロリダ州 森上助次
このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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