ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/4/6/7958/

パート 5: 民間部門でのキャリア - アメレックスとそごう百貨店

アメレックスでの就職

戦後、日本経済が再浮上し始めると、英語を流暢に話せる従業員が緊急に必要になりました。これは、正式な教育を十分に受けていない亡命者たちにとっても、多くの亡命者にとって命がけの経済的チャンスとなりました。タクは、生来の機知、生まれながらの好奇心、優れた社交スキル、ネットワーク構築、そして助けを必要とする人には喜んで手を差し伸べる姿勢を組み合わせて、この状況を最大限に活用した人の一人でした。1

占領軍の保護された環境で4年間働いた後、彼は将来について不安と焦りを感じ始めていました。そこで、アメリカ陸軍将校の紹介で、そごう百貨店チェーンの系列会社であるアメレックス・トレーディング・カンパニーという民間企業に就職し、1950年から1952年までそこで働きました。

時が経つにつれ、私は守られた生活を送っており、本当の世界は占領軍の外にあると感じるようになりました。それがどのように始まったのかは思い出せませんが、私はそのことを将校の一人に話したに違いありません。ある日、彼は私に、外で仕事を探してみないか、もしそうなら、日本人の経営者を紹介してあげようかと尋ねました。しかし、それは、私が占領軍の外で仕事を見つけるのを手伝ったことを誰にも言わないという条件付きでした。そうしないと、私の貢献を高く評価し、私が去るのを見たくない上司とトラブルになるからです。

占領は永遠に続くわけではなく、私の将来は別のところにあるのではないかと考え始めていた私は、彼の申し出を受け入れ、彼は私をアメレックス貿易会社の日本人マネージャーに紹介してくれました。同社は第二次世界大戦後にロシアから逃れ、米国に移住したユダヤ系アメリカ人が所有・運営する会社で、私は採用され、民間の環境で働き始めました。この会社の主な業務は、当時は占領軍に所属していない外国人を顧客としていた専門店に販売する物資、主に食料品の輸入でした。

会社の社長と副社長は帰化したアメリカ人だったので英語が堪能でしたが、母国語ではありませんでした。ある日、彼らは私をオフィスに呼び、受け取った手紙に載っている特定の単語が辞書に載っていないと言いました。私はその単語を見て、それはスペルミスで、こう綴るべきだったと彼らに伝えました。その単語が何だったかは思い出せませんが、彼らはすぐに辞書でそれを見つけました。この出来事は、その後オフィスで私を助けてくれました。日本人のマネージャーが、時には長くてあまり必要のない資料の翻訳を私に依頼するたびに、社長はマネージャーに「もっと重要な仕事があるので、タクにそんな些細な雑用を押し付けないで」と言いました。

入社2年後の1952年、私は日本の百貨店との合弁専門店の店長として大阪に派遣されました。ここで「専門店」という言葉について説明しておいた方がいいかもしれません。当時はPX(ポストエクスチェンジ)という、進駐軍人、民間人(公務員)とその家族が生活必需品を一通り購入できる店がありましたが、進駐軍民間人という範疇に入らない外国人民間人グループがいました。彼らは終戦時に日本に住んでいた外国人です。中には日本に取り残されて住み続けたイタリア人やドイツ人の軍人などです。この第三者グループのニーズに応えるために専門店が設けられ、通貨は米ドル紙幣が使用されていました。紙幣の銀行とのやり取りには小切手などに外国人のサインが必要で、私がその仕事に就いたのもおそらくそのあたりからでしょう。


そごう百貨店への就職

大阪で桜を楽しむタクと2人のビジネス仲間(日付不明)。(タク・マツバ提供)

1952年、タクは大阪のそごう百貨店チェーンに就職し、7年間勤めました。そこで、同じくそごうの従業員だった妻と出会いました。二人の間には3人の娘が生まれ、エイミー、アリサ、セレナという英語と日本語の両方の響きを持つ名前が付けられました。

共同専門店を設立した現在の日本の百貨店チェーン「そごう」は、本店が占領軍に接収されPXとして使われていました。時が経ち、講和条約が締結されるとPXは日本人のオーナーに返還され、専門店は閉鎖されましたが、私はそごうから社員にならないかと誘われ、それを引き受けました。これが日本のビジネス界での私のキャリアの始まりでした。私は1952年11月から1959年6月までそこで働きました。舞台裏で何が起こっていたのかはわかりませんが、アメレックス貿易会社の日本人マネージャーは後にそごう百貨店の副社長になりました。

余談ですが、数年後、リーダーズ・ダイジェスト誌に、日本に駐在していたスパイだったドイツ人ジャーナリストに関する記事が掲載されました。その記事では、アメレックスの日本人マネージャーもスパイ活動に関与していたとされています。マネージャーは激怒し、自分は関係ないと否定したと聞いたことを覚えています。この男には理解しがたい何かがあったので、彼が関係していたとしても驚きません。私にとって、彼はミステリアスな雰囲気を漂わせていました。彼のことを本当によく知ることは困難でした。

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ノート:

1.この件に関するタクのタツオ・ケイジに対するコメントを参照。著書『Uprooted Again: Japanese Canadians Move to Japan After World War II』 40-41ページ。

* このシリーズは、2020年3月に甲南大学言語文化研究所誌『言語と文化』に掲載された「日系カナダ人の十代の亡命者:タケシ(タク)マツバの生涯」と題する論文の要約版です

© 2020 Stanley Kirk

大阪市 大阪府 日本 アメレックス株式会社(企業) 株式会社そごう・西武
このシリーズについて

このシリーズは、和歌山からの移民の両親のもとバンクーバーで生まれた日系カナダ人二世、タケシ(タク)・マツバの生涯を描いたものです。第二次世界大戦が始まるまでの幼少期と十代、その後の家族の強制的な家からの追放、家業と全財産の没収、レモンクリーク強制収容所での収容、そして終戦後の日本への追放など、彼の思い出が語られます。

次に、戦後の日本での生活、特にアメリカ占領軍での勤務とその後の民間企業での経歴について述べられています。また、日系カナダ人亡命者協会の関西支部の設立と指導への参加、そして退職後の生活についても触れられています。この研究のためのデータ収集の過程で、タクはユーモアたっぷりでキャッチーな方法で回想する才能に恵まれていることがわかったため、物語の大部分はタク自身の言葉で語られ、本来の味わいが保たれています。

松葉孝文氏は2020年5月11日に逝去されました。

* このシリーズは、2020年3月に甲南大学言語文化研究所誌『言語と文化』に掲載された「日系カナダ人の十代の亡命者:タケシ(タク)マツバの生涯」と題する論文の要約版です

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執筆者について

スタンリー・カークは、カナダのアルベルタ郊外で育つ。カルガリー大学を卒業。現在は、妻の雅子と息子の應幸ドナルドとともに、兵庫県芦屋市に在住。神戸の甲南大学国際言語文化センターで英語を教えている。戦後日本へ送還された日系カナダ人について研究、執筆活動を行っている。

(2018年4月 更新)

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