彼の家族がカナダから日本に送還されたのは、タックが19才の時でした。彼の両親がカナダ東部への移住よりも日本への送還を選んだのには様々な理由がありました。一つには、カナダ東部への移住を選んだ場合何が起こるか不透明だったからです。彼らはまた、戦中に連絡が途絶えた日本の親戚の安否を気にしていました。その他の要因としては、彼の父親はカナダで全財産を失ってしまいましたが、三尾村に家を所有していたことでした。
カナダには何の資産もありませんでしたが、日本には彼が所有する家があり、少なくとも、雨露をしのぐ場所がありました。一方、カナダ東部行きには未知なことが多すぎました。主に以上のような事実による決断だったと思います。私達は歓迎されるのだろうか。住む所もなくどうやって暮らしてゆくのだろうと。また、私の両親が[日本にいる]祖父母を心配していました。後になって、全員が無事であることがわかり、とても安心していました。私達が日本に着いた時、私の両親の実父母はまだ健在でした。父の実父は戦前帰国していました。
タックは自分自身が帰国に賛成だったのか、反対だったのか覚えていません。「私たち兄弟は、両親の決断に従っただけです。当時は困難な状況でしたが、若さを味方に最善を尽くし、その決断を後悔することは決してありませんでした」。彼はその船旅についていくつかのことを覚えています。
かなりたくさんの人が船酔いをしました。私は大丈夫だったので、船酔いをした人の介抱をしました。目的は忘れましたが、私は携帯用のタイプライターを持っていて、乗客全員のリストを作るように頼まれました。これは後から知ったことですが、私達の船には、ハーバート・ノーマン氏というカナダ人が乗っていて、第二次大戦後、日本のカナダ公使館(後のカナダ大使館)の長として、東京に行く途中だったのです。
航海中、私は船の料理長と知り合いになりました。彼は私のことを気に入ってくれ、それまでの訪問で日本の現状をよく理解していたので、私が船に残るよう、日本に上陸しないよう一生懸命に説得してくれました。料理長は、船長の次の司令官のような存在で、私が彼のアドバイスを聞き入れようとしなかったので、とても大きな袋にベーカリーのロールをたくさん詰めてくれました。これは私達家族の上陸後数日間の食料になりました。
タックは、日本到着直後の久里浜引揚援護所でのひどい状況、特に、食料事情を覚えています。
私達は、東京近郊の久里浜に到着しました。8月で蒸し暑く、蚊がたくさんいました。私達の宿舎は大きな木造の建物の中にありました。それは陸軍の兵舎だったと思いますが定かではありません。蚊帳があって、私達はその中で寝ました。食料がとても乏しかったこと、そして、それが何かよくわからなかったこと以外は食料についてほとんど覚えていません。スープのような料理があって、私達はそれをディッシュウオーター(皿を洗った後の汚水)と呼んでいました。
彼はまた、東京から和歌山までのつらい鉄道旅を覚えています。
汽車は混んでいて、皆競い合って乗りました。ドアからではなく窓から乗った人もいました。途中たくさんトンネルがあって、石炭バーナーの煤が客車内に入り込んできました。私達はまた、荷物を盗まれないようによく見張っていなくてはなりませんでした。
和歌山に到着した時、タックの両親はほとんどお金を持っていませんでした。彼の父は、三尾村の家族の土地で農業を始め、米や野菜を育てましたが、状況は良くありませんでした。彼曰く、「まず、暮らしていける仕事を見つけること、その他のことは頭にありませんでした」。
多くの亡命者の経験とは対照的に、タックは親戚や村人から差別を受けたり、他の十代の若者からいじめを受けたりした記憶はありません。バンクーバー日本語学校で日本語を学び、レモンクリーク収容所時代、仏教青年会の一員として練習を重ねていたので、日常会話はそれほど問題ありませんでした。
また、たくさんの人が三尾村からカナダに移住していたので、カナダを行き来する家族に村人は慣れており、他の村に比べて寛容でした。しかし、「私たちがカナダから持ってきたわずかなものでも、それを持たない地元の人たちにとっては、とても魅力的なものだったので、地元の人たちからは羨ましがられた”こともあったようです」。
タックは、三尾村の原始的な生活環境に非常に不満を感じていました。水道も水洗トイレもなく、暖房もろくに効きません。このままでは経済的に先がないと実感したタックは、わずか1ヵ月後に東京に行き、現在の羽田空港にあった進駐軍の基地で、仕事(部屋代と食事代を含む)をすぐに見つけました。そのため、多くの人が経験したような本当の飢えに苦しんだ記憶はありません。また、「畳の上に座ることと、古い和式のトイレを使うこと以外には、日常生活で深刻な問題はありませんでした。今でも、この二つは苦手です。幸いなことに、現在の日本は全く違っていて、トイレは他のどの国よりも優れています」。
彼は、日本語の会話の基礎はできていましたが、最初の頃は言葉に苦労することもあり、仕事では英語と日本語の両方の辞書を引かなくてはなりませんでした。最終的にはより習熟したと感じるようになりましたが、勉強をやめてもよいと思えるところまで到達したとは思えませんでした。彼は働きに出て、生計を立てなくてはならなかったので、勉強を続けることは許されませんでした。「学校に行かずに、独学で勉強しようとしました。私はもともと好奇心が旺盛で、友人にたくさんの質問をしました。また、自然に身についてもいきました」。そのため、彼の日本への適応は他の人に比べて比較的スムーズでした。
彼は、カナダでの生活や友人、特に後者を恋しく思ったことを覚えています。「私はカナダの生活よりも友人が恋しかったです。私にとって ‘カナダでの生活 ’とは、1926年に生まれてから、1942年にレモン・クリーク収容所に送られるまで、ほとんど日本人だけのコミュニティで暮らしていた少年としてのものです。そして、レモンクリークからそのまま日本に来たのです」。
他の家族のメンバーとは異なり、タックは残りの人生を日本で過ごすことになりました。帰国後、両親がカナダについて多くのことを語った記憶はありません。それは、彼が両親と一緒に暮らしていなかったこと(来日後すぐに東京に引っ越した)や、話していても別の話題が中心だったことも一因です。同様に、タックがカナダに戻るべきかどうかについても話し合わなかったようです。「両親は私に自分の人生を選択してほしいと思っていたのだと思います」。 彼自身も、経済的な問題など、カナダに行ったら大変な障害が待ち受けているのではないかと感じていたこともあり、再びカナダに住みたいとは思いませんでした。
しかし、兄妹や両親は、カナダではなくハワイに向かって再び日本を離れることになります。姉のマスミ(Marie)は日本に7年住み、アメリカ人の軍人と結婚してハワイに渡りました。もう1人の妹・ミキヨ(Miki)は9年間日本にいて、ハワイに行った時にはまだ独身でしたが、結局Marieの夫の弟と結婚しました。タックの弟、タクミは日本で14年間過ごし、中学を卒業した後、姉たちの支援を受けてハワイに移住しました。
同じように、両親も子供たちを追ってハワイに移住しました。その後、両親は大学に進学するタクミと共にサンフランシスコに移りました。彼は電子工学のエンジニアとして卒業しましたが、その後、レストラン事業に転向し、Bushiteiという日本食レストランのオーナーとして大成功を収めました。
* このシリーズは、2020年3月に甲南大学言語文化研究所誌『Language and Culture』(言語と文化)に掲載された「A Japanese Canadian Teenage Exile: The Life History of Takeshi (Tak) Matsuba(日系カナダ人の十代の送還:タケシ(タック)・マツバの生涯)」と題する論文の要約版です。
© 2020 Stanley Kirk