ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/11/9/kenichi-doi/

バンクーバー朝日投手、土居健一と家族の物語

バンクーバー朝日ターミナルリーグ優勝、1926年。健一は前列右から4番目(写真提供:日系文化センター・博物館、2010.30.1.5.73.a-b)

地元リーグの優勝杯を持つ土居健一投手、1922年(写真提供:カンバーランド博物館、C140-024)

バンクーバー朝日がリーグ優勝を果たした1926年、土居健一はバンクーバー朝日チームの投手であった。しかし、元々彼は、バンクーバー島カンバーランドの第五鉱山の日系野球チーム「SUN(太陽)」の選手だったのだ。

この土居健一について詳しく知ることができたのは、小生の友人のノーム伊吹が、健一の長男で親友のジョージ土居を紹介してくれたからであった。

健一が野球選手として最盛期のころ、ジョージはまだ子供だったので、父が実際にプレイする姿については覚えてないという。唯一記憶に残っているのは、オープントラックの後方に乗って野球場に出かけ、試合を観戦したことだ。当時は誰もが野球をプレイし、観戦することを楽しんでいた。

そもそも、ジョージは父の健一がバンクーバー朝日の選手だったことを知らなかった。それを知ったのは、健一が亡くなった時に叔父のフレッド・タダオから「バンクーバー朝日がカンバーランドにやってきた時、投手の健一をリクルートした」という話を聞いた時だった。

1902年、土居健一はバンクーバー島のカンバーランドで生まれた。カンバーランド市の境界線に近い第五番鉱山周辺の第五番日系人地区で育った。そして、第五番地区の野球チーム「Sun」に所属し、投手として活躍した。

1915年、バンクーバー島のカンバーランド第五番日系人地区の自宅前の土居家族。 立っているのは左から、健一、加藤(伯父?)、とみよ(母)、馬太郎(父)、千代乃(姉)、原田兄弟。 子供たちは健一の兄弟(左から):てる子、ただお、ただし。千代乃は、その後原田氏と結婚。もう一人の姉しま代は、日本へ行っていて写真には写っていない。(写真提供:ジョージ・ドイ)

第5地区から少し離れた第一番日系人地区には、約40世帯の日本人家族が住んでおり、そこには「Nippon」という野球チームがあった。1922年、NipponとSunは混成チームを形成し、健一はそこでプレイをし、地元のCowichan-Comox Valley地区で優勝を果たした。

優勝したNippon・Sun の混成チーム、1922年。健一は真ん中左から2番目(写真提供:カンバーランド博物館、C140-374)

1926年、健一はバンクーバー朝日にリクルートされ、移籍を決めた。この時、バンクーバーでの宿舎と製材所での仕事をチームから保証されたそうだ。

1926年、ターミナルリーグで優勝したバンクーバー朝日は、上級のBC州野球選手権のプレーオフに臨むことになった。土居健一は後列右から2番目。(『Vancouver Sun』1926年8月7日)

その年、健一はバンクーバー朝日をターミナルリーグ優勝へ導いた。なお、土居家族は広島県出身だったが、バンクーバー朝日には、広島出身の選手が多かった。それぞれのチームに所属していた年代は異なるが、トム的場、ミッキー佐藤、ジャック速水、ジョージ宍戸、ケン中西、ジョー福井、ジェームス福井、ケイ上西などがそうである。

しかし、健一がバンクーバー朝日でプレイをしたのは1926年のみで、そのシーズン終了後、健一は結婚し、カンバーランドに戻った。

そして1927年、山火事で健一の家をはじめ日系人地区の多くの家が被害を被った。それゆえ、健一は妻と共に5キロ離れたロイストンに移り、早速、ロイストン野球チームに所属をした。ロイストンチームは、バンクーバー島に限らず、バンクーバーのロウアーメインランド、更には合衆国のワシントン州にも出かけて、各チームと試合を行った。

ロイストンチーム、1929年。健一は後列左から2番目。健一の兄弟クリフォード(4番目)とフレッド(6番目)もいる。(写真提供:カンバーランド博物館、C140-372)

小生の友人の永田陽一氏が見つけた1935年5月23日のバンクーバー島の地元紙「Comox District Free Paper」によると、同年、バンクーバー島に来訪中の東京ジャイアンツと、地元のトワイライトリーグオールスターズとの対戦が行われ、健一は投手ではなく二塁手としてプレイをした。東京ジャイアンツは、先発投手に畑福俊英、リリーフ投手に沢村栄治を投入したが、有名なジャイアンツの投手、ビクトール・スタルヒンは登板しなかった。

カンバーランド博物館の写真コレクションに、多数の日系人チームの写真が収蔵されているのでご覧いただきたい: “Japanese Residents & Building” 

また、息子のジョージは、健一の職業についても話をしてくれた。

健一は、12歳の時にはすでに、カンバーランドとロイストンの間にあった岸本牧場で働いており、毎日、朝早く起き、6頭の牛の世話をしてから、学校に登校した。学校へは4、5年生くらいまで通ったが、その後は炭鉱で働いた。しかし、炭鉱での仕事は賃金が安いうえ、ガス爆発の危険性があるため、健一は、木材または酪農関係の仕事を求めていた。

ある日、健一は炭鉱で足を踏まれて傷を負ったので、友人の鉱夫が代替で採掘に入ってくれた。しかしその同じ日に、爆発があったのだ。その鉱夫がどうなったのか、健一は覚えていなかったが、その事故で何人かの鉱夫が亡くなったそうだ。地元の野球チーム選手たちが、日系人墓地へ墓参した写真が一枚残されている。

Nippon・Sun の混成チームによる鉱山事故で亡くなったチーム選手と他の5名の鉱夫への墓参り、1922年。健一は左から6番目 (写真提供:カンバーランド博物館、C140-375)

ロインストンへ転居した健一は、地元最大の製材所で日系資本のロイストン製材会社で働き始めた。しかし健一は気にいらなかったようで、2年間勤務したあと伐木業に転じ、伐木人のアシスタントからのちに伐木リーダーにまで昇進した。当時の伐木は、現代よりも複雑で過酷な労働環境にあり、安全を第一に考えながら多くの現場体験を積むことが必要だった。なお、短期間であったが、義理の兄弟が受注していた製材契約の作業で働いたこともあった。

戦争がはじまると、健一の家族はスローカンのべイファーム収容所へ行くことを余儀なくされた。健一は、べイファーム近くの元農園に設置された小さな移動式製材所で、リーダーを任された。その後、労働者不足のため制限地域外で働くことが許されたので、1944年と1945年、健一は何名かの仲間と一緒に、ブリティッシュコロンビア(BC)州ゴールデンの近くのロジャーパス、チャプマンクリークなどの製材現場で働いた。

1945年、ベイファーム収容所にて。右端から健一、ジョージ(当時13歳)、末娘を抱いている母すみこ。その他は健一の子供たち(写真提供:ジョージ・ドイ)

1981年7月17日、健一はBC州スローカンで逝去した。

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さて、最近 喜ばしい出来ことがあったのでここに紹介したい。

バンクーバー朝日の創部100周年を記念して、2014年に結成された新バンクーバー朝日チームが、2019年に日本遠征を行った。その際、なんと土居健一の曾孫ワイリー・ウォーターズ(Wylie Waters)も参加したのだ。なんと不思議な縁であろうか。彼が、日本遠征について取り纏めた下記の報告があるので ご覧いただきたい。

このように、バンクーバー朝日の歴史が引き継がれ、現在につながっていることを知り、感慨深い思いになった。

(敬称略)

 

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このエッセイは、シリーズ「ニッケイ・ヒーロー:私たちの模範となり、誇りを与えてくれる人」の編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが編集委員のコメントです。

田中 裕介さんからのコメント

嶋洋文氏の「バンクーバー朝日投手、土居健一と家族の物語」を読みながら、過去30年にわたる「朝日軍」とのお付き合いの日々が走馬灯のように巡ってきました。この家族史研究は貴重なものです。1914 年から1941年までの「朝日軍」の歴史が、社会に投げかけた投網によってたぐり寄せられた成果です。チーム誕生から百余年を経ても、なお裾野が広がり続けるとは誰も予想しなかったでしょう

編集委員としては、客観的に作品を読まなければならないのでしょうが、日系ボイス編集者として1989年に雇われてから22年間、フリーになってからの9年間、振り返ると、「朝日軍」の名が頭をよぎらなかった日はなかったのではないかとさえ思います。日系史のどこを輪切りにしても、断面のどこかに朝日野球と繋がっている事例があるからです。

嶋洋文氏の記事に即して言うと、「健一は12歳の時にすでに朝早くに起きてロイストン近くの岸本牧場で牛の世話をしてから学校へ通った」という文章がありますが、カンバーランドの歴史に詳しいトクギ・スヤマさんによると、この牧場主の岸本さんは、強制移動後にオンタリオ州に再定住し、そこでも岸本牧場を営んでいたのです。起業能力を持っている人は財産を失っても、すぐに立ち直る力があったということでもあります。

他の作品にアスリートとして卓越した能力を持つ方の立派な自伝もありましたが、既に他の機関紙に発表された作品でもあり、今回は僕のキャリアの特殊性に鑑みて、嶋洋文氏のエッセイを特に選ばせていただきました。

*日本語編集委員の田中氏は、この嶋氏の記事を読みながら湧いてきた「朝日軍」にまつわる回顧録を書いてくださいました。回顧録はこちらからご覧ください >> 

 

© 2020 Yobun Shima

野球 ベイファーム強制収容所 ブリティッシュコロンビア州 カナダ カナダの強制収容所 カンバーランド 土居健一 ロイストン スローカン・シティの強制収容所 スローカン収容所 バンクーバー朝日(野球チーム) バンクーバー島 第二次世界大戦下の収容所
このシリーズについて

ニッケイのスポーツを、ゲームの勝敗を超えて特別なものにしているのは何でしょう?あなたのヒーローである日系アスリートや、あなたのニッケイとしてのアイデンティティに影響を与えたアスリートについて書いてみませんか?ご両親の出会いのきっかけは、ニッケイのバスケットボールリーグやボウリングリーグでしたか?戦前の一世や二世の野球チームに代表される日系スポーツ史にとって重要な時代に関心はありますか?

ニッケイ物語第9弾として、ディスカバー・ニッケイでは、2020年6月から10月までスポーツにまつわるストーリーを募集し、同年11月30日をもってお気に入り作品の投票を締め切りました。全31作品(日本語:6、英語:19、スペイン語:7、ポルトガル語:1)が寄せられ、数作品は多言語による投稿でした。編集委員とニマ会の方々に、それぞれお気に入り作品の選考と投票をお願いしました。下記がお気に入りに選ばれた作品です。 

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執筆者について

嶋洋文は戦後の京都で生まれ育ち、その後、東京の海運会社に勤めた。彼の祖父母と3人の息子たちは、1907年ごろから順次カナダに移住した。しかし、1930年代までに、カナダ残留を選んだ一人の息子を除き、順次日本へ帰国をした。

2007年に定年を迎えた頃、伯父の正一がバンクーバー朝日の選手だったことを知り、それをきっかけにバンクーバー朝日の研究調査を開始した。現在は、ブリティッシュコロンビア州スポーツ殿堂の依頼に基づき、バンクーバー朝日の選手家族及び関係者の協力を得ながら、殿堂メダルを渡されていない選手や家族を探すボランティア活動を続けている。

(2018年10月 更新)

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