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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2020/10/23/waves-of-pandemics/

感染病の流行と日系カナダ人コミュニティ

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1918年のスペイン風邪流行時に設置された臨時委員会のために尽くした日系人の医師とリーダーたち:前列右から3番目から下高原幸蔵医師、浮田郷二領事、赤川善盈牧師、石原明之助医師。

1918年に猛威を振るったいわゆるスペイン風邪のパンデミックは、2年にわたり断続的に続いた。世界中で5億人が感染し、5千万人の命を奪ったといわれている。感染爆発の最初の犠牲者は第一次世界大戦時に戦場で闘った兵士たちだった。兵隊たちが戦場から郷里に復員してきた時にウィルスが拡散し、世界中で大流行したのである。カナダも例外ではなく5万人が亡くなった。

一方、日系人に対する差別は第一次世界大戦中(1914〜1918)は多少緩和されていたようだ。これは多分に、日英同盟の条約に従って、日本の戦艦がカナダ太平洋沿岸一帯を巡洋して、ヤップ島に常駐するドイツの軍艦の動きを監視していたからである。戦後、復員兵たちが労働市場に溢れ出し、森林伐採業に従事する日系人労働者の職を奪った。1923年、20年間続いた日英同盟が破棄されると、同じ頃、カナダ政府は日系漁業者たちの持つ漁業ライセンスを40%削減した。このように戦争と人種差別はいつも手を組んでいるように見える。

1890年代、ドイツは「黄禍」を煽り立て、ロシアのヨーロッパ諸国への侵入意欲をアジア諸国へ向けさせようとした。それはちょうど日本と中国が朝鮮半島の政情に干渉し始めた時でもある。この朝鮮半島の緊張が高じて、1894年に日本と中国の間で日清戦争が勃発し、1904年の日露戦争へと発展した。帝国日本は二つの戦争に勝利し、欧米諸国を驚かせた。日本の持つ軍事力が初めて脅威と見なされ、それがアジア人に対する差別を助長した。


日系病院の創設を急がせた腸チフス

カナダのブリティッシュ・コロンビア州(BC)への日系移民は、季節労働者として1880年代に始まった。夏の鮭漁は、特に和歌山県からの労働者をBC州スティーブストンに引き寄せた。彼らは1890年代初期には日系コミュニティを形成し、その10年後には3千人ほどの村に成長した。しかしながら、労働環境は劣悪を極め、不衛生で不健康な環境だった。そのため腸チフスの感染者は即座に増加したが、スティーブストンのセントメリー病院は日系人の治療や収容を拒んだ。

この非常時に対応するために、1895年に歯科医の山村梅次郎が地元スティーブストンに建てた教会堂をすぐに日系人の臨時病棟に転用した。

一方、日系漁業者たちはフレーザー河日本人漁業者団体を1897年に設立し、費用は払うので日系人を収容してもらえないかと、セントメリー病院に申し入れたが断られた。そこで漁業者団体は、日本人医師を雇って独自の病院を建設した。モントリオール大学で外科医となった、キリスト教信者の大石誠之助が短期間だけ働いたという。彼の後任には京都から石原明之助医師が赴任した。だが石原は、カナダでの医師免許を持っていなかったので、看護師として働かなければならなかった。のちに、彼はバンクーバー市内に移り、日本人街に内科医院を開業した。

このスティーブストン漁業者団体経営の医院は40年以上続いた。しかしながら、同病院は同団体の会員とその家族のみを治療対象にしており、広く西海岸に点在している会員たちには不便な病院だったという。そのためコミュニティが成長するにつれて、日系人の多くはバンクーバーの日本人街にも自分たちの病院が欲しいと思うようになった。

1918年以来、スペイン風邪はバンクーバーを3回襲った。一度目は同年春、そして二度目は秋で、さらに厳しいものとなった。そして1919年に第三波が襲い、日系人社会だけでも100名が犠牲となった。二度目の流行の際にはバンクーバー総合病院のベッド数が足りなくなった。治療用の消毒剤も不足し、病院側は当時の禁酒法で禁止されていたウィスキーを入手し消毒液として使っていたという。

この危機的状況の最中、3人の著名な一世が現れた。当時の在バンクーバー領事の浮田郷二、赤川善盈牧師、下高原幸蔵医師である。市役所の了解を得て、日本人街に近いペンダー通りにあるストラスコーナ公立学校を、臨時病院施設として3週間使用することになった。キリスト教会の信徒の妻たちがボランティア看護師となり、日本出身の元看護師数人の指導の下で働いた。彼女たちは1日12時間働き、ボランティアの医者、高橋、木下、石原医師たちも同様だった。そして、そこで唯一の医師免許を持つ下高原医師が、薬事法に基づく処方箋を出した。

1918年、感染が猛威を振るった時、日系人ボランティアや国際赤十字の看護師は臨時病棟に転用されたストラスコーナ公立学校で3週間にわたり連日12時間以上も働いたという。(photo: courtesy of ‘Nikkei Legacy’)

その当時は、日系コミュニティの大多数を出稼ぎ労働者が占めていた。厳しい人種差別も彼らの目には、帰国するまでの稼ぎに対する代償としか映っていなかったようだ。不衛生な労働環境からくる病気や危険な仕事による怪我は、労働者なら誰もが逃れられないリスクであった。トロント大学のケン・カワシマ教授はこの労働者の定めを「労働者階級の賭け」と呼んでいる。

1911年、写真花嫁(写真を交換した上で決める見合い結婚)の流入は頂点に達した。その後、写真花嫁は減少に転じたが、カナダ生まれの二世が誕生し、コミュニティ全体が家族単位で構成されるようになった。親たちは子供のために面倒見のよい日本人内科医を必要とした。言葉の壁があり、カナダ人医師に診てもらうのは困難だったからだ。

下高原幸蔵医師と日系アメリカ人の妻の信(しん)(旧姓:草間)。(写真提供:マイク・アシカワ)

だが、正式な医師免許を持つ日本人が日本人街で初めて開業したのは1916年だった。それが下高原幸蔵(1885〜1951)だった。地元の日系コミュニティのために生涯を捧げた伝説の人である。鹿児島県出身で14歳にしてカナダに移民してきた彼は、学校に通いながらハウスボーイと呼ばれる家事全般をこなす住み込みの使用人として働いた。苦学の末、米国のシカゴ大学で医学部を卒業し、信(しん・1891〜1972)と米国で結ばれバンクーバーに戻ってきた。信は、京都で正規の看護師として働いていたヤスヨ(赤川牧師の妻)と共に、感染流行の只中でボランティアたちを指導しながら極めて多大な量の仕事をこなした。今日のコロナ流行との違いは、スペイン風邪により多くの子供たちが犠牲になったことで、看護師や他のボランティアも罹患し、中には亡くなった人もいた。

じきに、地元の日系コミュニティは、感染流行に備えて日本人街にも日系病院が必要だと思うようになった。そこで、石原医師と高橋医師が働きかけて1920年春に初の日系コミュニティ病院がアレキサンダー通りに完成した。

ところが、次に流行した伝染病は感冒ではなく結核だった。1932年、結核罹患者がカナダで急上昇した。これを受け、合同教会の清水小三郎牧師が警鐘を鳴らし、結核患者を診断治療するためのクリニックを開院させた。

しかしながら、結核患者は急増し、このクリニックはじきに患者で満杯となってしまった。そこで、日系人の結核患者は全員、セント・ジョセフ東洋人病院結核病棟に移された。これはバンクーバーでアジア人を診療する医療施設で、1928年にモントリオールのマザーハウス院の修道女宣教団体によって創設されたのだった。

1935年、結核の流行が再び警鐘を鳴らすと、下高原医師が即座に動いてある篤志家に働きかけ、当時の推定価格で3500ドルもするX線撮影機材をセントジョセフ東洋人医院に寄付してもらった。下高原医師は診療の支払いに関しては、貧しい学生たちや低収入の患者たちに寛大だったことで知られている。のちに真珠湾攻撃の後、日系人が敵国人として扱われ、強制立ち退きを強いられた時、彼はこれまでの患者たちの診療費の未払い分をすべて破棄処分にした。その未収総額は15万ドルにものぼったという。下高原医師は戦後もゴーストタウン収容所だったカズローに止まり、日系人であろうとなかろうと関係なく、1951年に突然心臓発作で亡くなるまで、診療を続けた。

日系カナダ人の歴史を1890年代から見てみると、日系コミュニティは出稼ぎ労働者集団に始まり、1910年代から二世が生まれ始め、家族単位に移行していったことがわかる。何度も断続的に続いた感染症や結核との闘いは、人種差別をより厳しいものにしていた。しかし、当時の地元の医師たちやコミュニティーリーダーたちが、日系コミュニティの健康保全のために粉骨砕身して尽くした努力の跡が見て取れる。

石原医師はスティーブストンの日系漁業者団体が創設した病院で、その初期の頃に勤務した。バンクーバー市内の日本人街に移ってからは、1916年に下高原医師が開業するまで、唯一の家庭医として働いた。スペイン風邪が猛威を振るう中、赤川牧師は、看護師でもある妻と一緒に短期間ながら公立小学校を臨時病棟に転用して治療に当たった。

この救急事業は、浮田郷二領事の外交手腕によって可能になったのである。浮田領事が最初に赴任してきたのは1890年代で、石原医師の義兄に当たる鏑木五郎牧師を助けて、1897年に初の日系新聞を創刊させた。また、当時、日系社会が腸チフスの流行に苦しんだ時にも援助した。それは、1918年にスペイン風邪が流行る20年前のことである。浮田領事は日系コミュニティに赴任したこれまでの高官の中では、地元日系社会に最も貢献した一人であろう。カナダの日系史を通して見た時、緊急事態が発生する度に、英雄や伝説が生まれてきたことが見えてくるだろう。

 

© 2020 Yusuke Tanaka

ブリティッシュコロンビア州 カナダ 日系カナダ人 日本の病院 ジャパンタウン バンクーバー (B.C.)
このシリーズについて

人と人との深い心の結びつき、それが「絆」です。

2011年、私たちはニッケイ・コミュニティがどのように東日本大震災に反応し、日本を支援したかというテーマで特別シリーズを設け、世界中のニッケイ・コミュニティに協力を呼びかけました。今回ディスカバーニッケイでは、ニッケイの家族やコミュニティが新型コロナウイルスによる世界的危機からどのような打撃を受け、この状況に対応しているか、みなさんの体験談を募集し、ここに紹介します。 

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執筆者について

札幌出身。早稲田大学第一文学社会学科卒業。1986年カナダ移住。フリーランス・ライター。グレーター・バンクーバー日系カナダ市民協会ブルテン誌、月刊ふれーざー誌に2012年以来コラム執筆中。元日系ボイス紙日本語編集者(1989-2012)。1994年以来トロントで「語りの会」主宰。立命館大学、フェリス女学院大学はじめ日本の諸大学で日系カナダ史の特別講師。1993年、マリカ・オマツ著「ほろ苦い勝利」(現代書館刊)により第4回カナダ首相翻訳文学賞受賞。

(2020年3月 更新)

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