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高橋武のシカゴ - パート 2

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3. シカゴでの高橋さんの生活

高橋武は渡米前からアナキストであると自称し、同志からは「幸徳の弟子」と称されていた。1 日本の同志の間では、高橋がシカゴで社会革命党の支部設立に尽力していることは知られていた。2高橋は繊細で温厚、豊満で内気でハンサムな男性で、アナキストの暴力的で典型的なイメージはかけ離れていた。いつも夢を見ているような風貌で、話しかけられると少し頭を下げて微笑み、鼻で答えたと伝えられている。バクーニンやクロポトキンを読み、資本主義の廃止など過激な思想を語った3が、健康状態が悪かったこともあり、社会的マイノリティであることの苦痛を痛感していたためである。彼が社会主義に惹かれたのは、最大の幸福を得るためには、権力を持つ少数の残忍な人々によって運営されるシステムが彼らを打ち負かすことができないように、無力な人々が協力して自らを守るべきだという信念からでした。4

高橋がシカゴに惹かれたのは、叔父の山田七郎と従弟の辰野文雄がすでにそこに住んでいたからでもある。山田はノース クラーク ストリート 927 番地に「ザ ファー イースト」という紅茶とコーヒーの小売店を経営しており、辰野は製鉄所のエンジニアとして働いていた。山田の家に住み、彼の仕事を手伝いながら、高橋は社会主義者の目を通してアメリカを研究し体験する計画を立てた。

彼は英語で社会主義週刊紙やカール・マルクスを読み、シカゴの社会主義者についての記事を書いて日本に送った。例えば、1906年9月3日に参加した労働者の日のパレードについては次のように報告している。

パレードは大々的だった。ミシガン通りを行進し、みすぼらしい服に赤いリボンをつけた労働者たちがトランペットの音に合わせて堂々と行進し、大声で歌い、興奮して馬車の上に立ち、叫び、イタリア人とドイツ人が手をつないで楽しそうに話していた。彼らを見て、私は興奮を抑えられなかった。私はウェストマディソンの労働者の「巣」を訪れ、社会党の本部も通り過ぎたが、特に何も起こっていなかった。労働者たちは家族とともに平和に歩いていた。5

高橋が訪れたウエストマディソンの労働者たちの「巣」は、148 W.マディソンにあったIWW本部だったのだろうか。地元紙によると、パレードにはシカゴの38の労働組合の組合員を含む約12,000人の労働者が参加した。「規模の点では、このパレードはシカゴの労働者の日にこれまで見られた中で最小だった。これは、約10分の1の組合だけが行進したという事実による。」 6しかし、パレードの規模に関係なく、高橋は非常に興奮しており、シカゴの労働者たちと連帯し、彼らのエネルギーを吸い込んでいた。

高橋は IWW に新規会員として報酬を支払った。産業組合報(1907 年 10 月 26 日)
高橋はIWWのボタンを購入した。Industrial Union Bulletin (1907年11月16日)

当初、アナルコ・サンディカリズムに傾倒していた高橋は、ダニエル・デ・レオンが 1895 年に設立した社会主義貿易労働同盟7に関わっていたが、1907 年 9 月に IWW に加入した。記録には、彼が新規会員として 2 ドルを支払い8 、また組織を支援するために 35 セントで IWW のバッジを購入したことが記されている9 。 「私は今でもアナキストだが、スタイネルやバクーニンやクロポトキンやエマ・ゴールドマンを支持しているわけではない。私は IWW を支持している。私はすべての特権階級と戦う。直接行動だ!」と高橋は友人の前田子に興奮気味に語った10

シカゴには幸徳伝次郎と親しい関係にあったもう一人の日本人社会主義者がいた。それは1903年にニューヨークでアメリカ社会党に入党し、1906年10月に妻のジョセフィンとともにニューヨークからシカゴに移住した金子喜一である。幸徳は金子がシカゴに到着するとすぐに高橋を金子に紹介した。「あなたの街に高橋武という少年がいます。彼は将来有望な少年です。ときどきあなたのところに行くように言いました。どうか彼に良い教訓を与えてください。」 11

その後、高橋と金子は日本の社会主義の同志として時々会うようになったに違いない。高橋は独身、金子は知的なアメリカ人女性と結婚しており、状況は全く異なっていたが、シカゴでの彼らの生活は、アメリカの厳しい人種差別的な風潮の中で、普遍的な人間性という理想化された夢を通して希望を求める必死の闘いにおいて一体となっていた。

残念ながら、高橋の日常生活は悲惨なものだった。叔父の山田は社会主義者を嫌っていたからだ。高橋の壁にかかっていたカール・マルクスの写真は頻繁に引き裂かれ、高橋が購読していた週刊社会主義新聞は屋根裏部屋から消えた。12 山田はまた、紅茶やコーヒーを運ぶ馬車の運転手や配達人として高橋を酷使した。彼は毎日早朝から夜遅くまで働かなければならず、昼休みは短く、給料はごくわずかだった。高橋は「配達員は AFL の組合員であるべきだ。組合員かどうか何度も聞かれた。叔父が組合員を使うと、驚くほど高い給料を払わなければならない。最低でも時給 50 セント。1 日 8 時間働けば 1 日 4 ドルの給料で、残業代も請求される。叔父の店では最低でも週 30 ドルはもらえる。私は週 10 ドルしかもらえず、残業代も出ない」と不満を漏らした。13

高橋は父親を支える責任もあり、定期的に日本に送金していた14 が、日々の生活の苦難ですっかり疲れ果てていた。1907年に高橋の友人である前田弘一郎がシカゴに来て山田の店で彼と合流したとき、前田弘一郎は、高橋が米国への旅行に非常に興奮していたにもかかわらず、決して幸せではないことに気づいた15 。経済的困難と惨めな生活にもかかわらず、高橋はまだ社会と世界をより良くするために貢献したいという希望を持ち、街頭で扇動的な演説をしている自分を想像していた16

4. 日本政府の監視下

一方、日本政府は、1904 年の日露戦争以来、米国在住の反政府日本人を真剣に調査していた。17幸徳サンフランシスコでの活動は政府の監視下にあった」し、1906 年から 1911 年までの米国における「極秘」の「日本人過激派の歴史」は、日本政府の「スパイ」によってまとめられた。18 シカゴは「中国、朝鮮、ヨーロッパからの多くのアナキストが集まり、アナキスト雑誌も活発に発行されている都市である。それらのアナキストから経済的に支援を受けている日本人学生も多数いる。アナキストである日本人女性も 2 名いる」と日本政府に報告された。19 1911年の日本政府向け秘密報告書には、「高橋武」が社会革命党員として記載され、住所は山田の紅茶・コーヒー店の住所であるノース クラーク通り 927 番地と記載されていた。20

金子は「日本政府からスパイの一団がこの国に派遣され、この国の『褐色の小男たち』を監視し、『アナーキスト』と名付けられそうな者を追放する」と警告されていた。21金子は「危険な日本人七人」の一人として監視下に置かれていた。22 おそらく、金子と妻のジョセフィンが1907年初頭に社会革命党の出版物『革命』に寄稿していたためだろ。日本への輸入と配布が禁止されていた出版物のリストには、 革命』『アピール・トゥ・リーズン』 (カンザス州ジラードで発行されていた週刊社会主義新聞で、ジョセフィン・コンガー・金子は結婚前に同地で記者として働いていた)、 『プログレッシブ・ウーマン』(ジョセフィンがシカゴで発行)、 インターナショナル・ソーシャリスト・レビュー』 、ニューヨークで発行されていた『マザー・アース』などがあった。23

貧困とアメリカの厳しい人種差別の現実が高橋とその思想に影響を与え、徐々に変化していったが、高橋はニューヨークを拠点とするアメリカのアナキスト雑誌『マザー・アース』の発行人で有名なアナキスト、エマ・ゴールドマンと個人的に接触した最初の日本人の一人であった。エマ・ゴールドマンは高橋を「エネルギッシュな同志」と呼んで高く評価していた。24

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ノート:

1. 前田子、俺の30年6ヶ月
2.、1906年7月20日。
3. 前田子「たけちゃん」日米週報、 1917年12月29日。
4.赤い馬車、30ページ。
5.、1906年11月5日。
6.シカゴ・デイリー・トリビューン、 1906年9月4日。
7. 1910年11月14日、前田湖が徳富に宛てた手紙。
8.産業組合報、 1907年10月26日。
9.産業組合報、 1907年11月16日。
10. 中田幸子『前田弘一郎に許される「アメリカ」』158ページ。
11. 1906年11月17日付幸徳から金子への手紙、 『ザ・プログレッシブ・ウーマン』 1909年5月号。
12.赤い馬車、32ページ。
13. 前田湖『人間(大陸編)』 390ページ。
14.社会主義社無生婦主義社人物研究資料 1.
15. 前田浩一郎『青春の自画像』55ページ。
16. 同上、76ページ。
17. 松尾昭一「改革米国における日本人釈迦主義社無生婦主義社刊、12ページ。
18. ノテヘルファー、FG、 「幸徳秋水:日本の急進派の肖像」 、132ページ。
19. 孫哲雄が高橋作栄に宛てた手紙、1910年5月7日。
20.社会主義社無生婦主義社人物研究資料 1.
21. 『プログレッシブ・ウーマン』 1911年5月号。
22.インターナショナル・ソーシャリスト・レビュー、 1908年3月。
23. 『米国における日本人釈迦主義者無生不滅主義者縁覚』 402ページ。
24.母なる地球、 1910 年 7 月。

© 2020 Takako Day

積極行動主義 無政府主義 シカゴ 世代 イリノイ州 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 社会的行為 社会主義 タケシ・タカハシ アメリカ
執筆者について

1986年渡米、カリフォルニア州バークレーからサウスダコタ州、そしてイリノイ州と”放浪”を重ね、そのあいだに多種多様な新聞雑誌に記事・エッセイ、著作を発表。50年近く書き続けてきた集大成として、現在、戦前シカゴの日本人コミュニティの掘り起こしに夢中。

(2022年9月 更新)

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