蒲井
山口県の上関町蒲井(かみのせきちょう・かまい)は、瀬戸内海にある長島という細長い島の南側に位置する海辺の村だ。現在は上関大橋で本土と陸続きになっているが、1960年代までは本土との橋もなく、交通手段は船だけ。当時、家屋約100軒、人口約400人程度の寒村だった。
筆者の生家には、90歳を超えた「おじいさん」の甚蔵(じんぞう)と祖母のアキがいた。てっきり二人は夫婦だと思っていたのだが、甚蔵は私の曾祖父だったと成長してから知った。祖母・アキの夫は、與右衛門(よえもん)という名で、1884年にこの蒲井で9人兄弟姉妹の長男として生まれた人物。私が生まれた時は既に亡くなっていたが、部屋に飾られた與右衛門の写真をよく覚えている。
庭付きの広い生家に、法事や祝い事で親戚や村の人々が集まるたびに、必ず話題になるのが與右衛門の話だった。「このような立派な家を建て、親思い、兄弟思いの立派な人だ」と、皆が口々に話していた。「與右衛門はアメリカのシアトルへ行き、理髪業の成功により立派な家を建てた。しかし、與右衛門はシアトルで不慮の事故で若くして亡くなった」。それが、私が耳にしてきた話だった。
蒲井は、半農半漁の人々が暮らす小さな村ながら、アメリカ帰りの人が多い。英単語が日本語に入り交じり、私が子供の頃からパンやコーヒーを常食とする人が多くいた。『上関町史』によると、1900年代の初めころ、蒲井から合計28名がアメリカへ向かった。移民というより、家族への仕送りを目的にした出稼ぎと言った方がよく、みんな身を粉にして働いたという。
新舛與右衛門のライフヒストリーを紐解く
筆者は大学入学時から蒲井を離れ、神戸の外資系メーカーの企画関連部門で長年に渡って勤務した後、2015年に定年退職した。新規一転、再度大学で勉強でもしてみようかと思い立ったわけだが、そんな折に会うことのなかった祖父を思った。明治の昔、小さな島から太平洋を越えてシアトルへ向かった祖父、與右衛門。どうしてそんなに遠い異国にまで行き、しかも大成することができたのか。自分の知りえない與右衛門のシアトルでの25年間の生活に興味を感じてきたことを振り返り、シアトル日系移民の歴史研究を通して客観的な立場で研究してみたいと思った。日本大学通信教育部の史学専攻に入学し、卒業論文として「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」を執筆した。
実家に残された與右衛門に関する資料を探し始めると、父の與(あたえ)が大切に保管していたシアトル移民時の写真、手記、パスポート、乗船名簿、パブリック・スクールの記録等を見つけることができた。更に、国立国会図書館やJICA横浜海外移住資料館へ足を運び、『米国西北部日本移民史』(竹内幸次郎)やシアトル邦字新聞『大北日報』のアーカイブ記事に残る與右衛門に関する記述も見つけた。『北米百年桜』(伊藤一男)や『日本人アメリカ移民史』(坂口満宏)など多くの文献から時代背景を考察しつつ、與右衛門のライフ・ヒストリーとシアトルでの理髪業成功の真相を解明することができた。
船出
日本人によるアメリカ移民は1868年のハワイ移民に始まる。ハワイ王国のカラカウア王の親日政策の中で1884年までに153名の日本人が出稼ぎのためにハワイへ渡航した。1871年には日本ハワイ修好通商条約も結ばれており、1881年に訪日したカラカウア王は明治政府に国賓待遇の歓迎を受けている。この頃、山口県を中心とした西日本は深刻な不況の中にあり、飢えと貧しさに苦しむ農民が続出していた。日本政府はこの貧困を打開するためハワイ移民を推奨し、ハワイ王国もサトウキビ栽培のために日本人の労働力を求めた。当時の外務大臣は山口県出身の井上馨。井上としては、不況が深刻な地元からハワイ移民を多く輩出したいと考えたのだろう。ハワイ移民は山口県出身者に集中した。
19歳の與右衛門がハワイへ渡ったのは1904年1月。家族の貧困を打開するためハワイへ渡った。蒲井から、ほとんど着の身着のままで、父・甚蔵に見送られ、小型船に乗り込み神戸まで向かった。神戸で本船に乗り換えハワイへ。当時の船旅は実に過酷なものだった。船室は狭く、太平洋の海は時に荒れ狂い、船は木の葉のように揺れ、ひどい船酔いをする人も多くいたという。
1898年にハワイ共和国がアメリカ合衆国へ併合され、日本とハワイ王国間の取り決めの下で送られていた官約移民は1900年までに終了。一方で、ハワイにいた日本人労働者がさらに高い稼ぎを期待して一挙にアメリカへ移動、ハワイを踏み台にアメリカ本土へ転航しようという日本人によるアメリカ移民熱も高まっていった。アジアからのアメリカ移民は当初は中国人が主流であったが、1882年の中国人排斥法で安価な労働力が不足すると、アメリカ資本家は中国人に代わる日本人の移民を熱望した。
與右衛門もこの流れに乗り、3年間のハワイ滞在後、1906年5月にハワイからシアトルへ向かった。この時、與右衛門はパスポートも乗船チケットも所持していなかった。「蒲井の海で泳ぐのは子供の頃から得意であったので水夫に偽り、船が港についてから泳いで上陸した」と、與右衛門の長女で現在102歳の叔母は話す。この與右衛門の大胆な行動を知り、何が何でもシアトルに行くという與右衛門の執念に驚嘆させられる。こうして與右衛門はシアトルに上陸し、異国の地での苦難の仕事と生活が始まった。
参考文献:
『上関町史』(上関町史編集委員会編、上関町、1988年5月)、『山口県大島郡ハワイ移民史』(土井彌太郎、マツノ書店、1980年7月)、『もう一つの日米関係史』(飯野正子、有斐閣、2000年3月)
*このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙「北米報知」とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。日本語版は、2019年5月26日に『北米報知』に掲載されました。
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