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南米の日系人、日本のラティーノ日系人

メキシコ榎本殖民団に「海外移住の夢」を託した榎本武揚という人物 ― その1

榎本武揚(写真:ウィキペディア)

明治維新から始まった日本人の海外移民は、ハワイ王国に第一陣が到着してから昨年の2018年で150年になった。その後アメリカ本土と中南米にも多くの日本人が移住した。メキシコへの最初の移民は、1897年にチアパス州エスクイントラに入植した「榎本殖民団」である。このグループは、明治政府の元外務大臣、榎本武揚によって推進された移民団体だ。しかし、事前の調査不足や土地や気候の不完全な情報、資金不足ゆえに1年もしないうちにその多くが殖民地から逃亡。1901年に殖民地は事実上崩壊した。しかし、この地に残った移民6人が日墨協働会社を設立。メキシコ革命による内戦の影響を受けながらも、様々な事業を展開し、メキシコ社会へ多大な貢献をしたとして、榎本殖民団の名は今でもよく知られることとなった1。今回は、榎本武揚が、幕末から明治維新にかけての動乱の時代をどのように生き、彼がなぜメキシコへ殖民団を送ったのかを見ていきたいと思う。
 

幕末の榎本武揚 

榎本武揚は、幕臣の子として1836年に江戸に生まれた。青少年期から儒学を学び、役人になるために幕府の昌平坂学問所に入学、その後私塾で砲術やオランダ語、英語を学んだ。21歳のときに長崎海軍伝習所に入った榎本について、オランダ海軍中佐カッテンディーケ(Huijssen van Kattendijke)は彼の学問と実務に対する熱心さと努力を高く評価している。その後、横浜の私塾でも海軍兵法を学び、1858年には軍艦操練所の教授として迎えられた。

1861年、幕府は、アメリカから軍艦3隻を購入し、アメリカへ留学生を送ることにしたが、南北戦争の影響でそれが実現せず、その発注をオランダに変更するとともに、留学先もオランダへ変更となった。留学生15人の一人として選ばれていた榎本は、留学先で、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、科学、物理学、数学、国際法「万国海律全書」を学んだ他、ヨーロッパ有力国の軍隊を観戦する機会に恵まれた。1866年、日本へ帰国、翌年はオランダで購入した最新鋭軍艦「開陽丸」の艦長に任命、その後幕府の海軍副総裁に昇進した。しかしその間、徳川慶喜が大政奉還を宣言し、1868年には王政復古による新政権が樹立。それまで260年続いた徳川幕府が事実上崩壊し、幕府軍の一員だった榎本も賊軍となった。

その後、旧幕府軍と新政府による戊辰戦争が拡大する中、榎本は箱館の五稜郭で幕府の主要軍艦8隻を率いて新政府に立ち向かうが、激しい戦闘の末降伏に追い込まれる。榎本は最高司令官として自決を決意するが側近に制止され、官軍の黒田清隆に降伏した。その後処刑されてもおかしくない状況にあったが、榎本の才能を高く評価していた黒田による助命嘆願をもって1872年に明治政府の特赦によって放免、以後様々な官職に就いた。

「箱館大戦争之図」永嶌孟斎画。一番左の白馬に乗り槍を持った人物が榎本。(写真:ウィキペディア)


開拓使から官僚へ

放免された榎本は、開拓使黒田の強い要請で「北海道開拓使四等出仕」として任官(1872~73年)、鉱物学の知識を存分に発揮して道内の鉱山(石炭)調査を行った。北海道での任務を終えた後、榎本は駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結し(1875年)、その後はドイツ、フランス、イギリス、ロシアを訪問し、シベリアを横断した。

政府の要職としては、外務大補(1879年)、海軍卿(1880年)、駐清特命全権公使(1881~85年)等を務めた。また、1885年に内閣制度が発足した後には、初代逓信相(1885~88年)、文部相(1889〜90年)、外務相(1891〜92年)、農商務相(1894~97年)を歴任した。榎本は、初代内閣で入閣を果たした唯一の旧幕臣であった。

1887年には子爵の身分が天皇から授与され、その前年には勲一等旭日大綬章(くんいっとうきょくじつだいじゅしょう)が叙勲され、89年には大日本帝国憲法発布記念章、その他、ロシア帝国、イタリア王国、大清帝国、ポルトガル王国、ハワイ王国等からも叙勲されている。


海外殖民事業を推進

榎本は、開拓使として北海道で調査を行ったときから日本の限られた鉱物資源や耕地面積では、増え続ける国民のニーズに対応できないと危機感を抱いており、常に海外殖民の必要性を主張していた。人口増解決案として、小笠原諸島への罪人の移住、スペイン領のラドローネン諸島(現マリアナ諸島)とペリリュー島(Peleliu)の購入を政府に進言し、実際それを実現させた。1879年には、東京地学協会を立ち上げ、ボルネオ島とニューギニア島を買収し、日本人をそこへ移住させようと提案し、さらには枢密顧問としてメキシコ移民案を内閣に提出した。

1891年、榎本は、当時外相だった青木周蔵外相の後任として起用され、外務省の大臣官房内に「移民課」という部署を設置した。そして、海外殖民事業の政策を進めるためいくつのかの国(ニューギニア島やマレー半島等)の情報収集を命じた。しかし、1897年農務商大臣を務めていた榎本は、足尾鉱毒事件の政治的責任を負って辞任、榎本は、20年に及ぶ政界での職を終えた。結局、官僚時代に移民を送ることはできなかったのである。

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注釈:

1. 榎本殖民団の功績については、漫画版「サムライたちのメキシコ」が日西両言語で出版されており、メキシコの日本人移住の苦難と忍耐、革命や戦争に奔走された移住者の歴史や今の信頼の基盤をどのように築いたかが、わかりやすくまとめられている。

 

© 2019 Alberto J. Matsumoto

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このシリーズについて

日本在住日系アルゼンチン人のアルベルト松本氏によるコラム。日本に住む日系人の教育問題、労働状況、習慣、日本語問題。アイテンディティなど、様々な議題について分析、議論。