1908年、日本人がブラジルへ集団移住を始めた。10年後の1918年、鹿児島県奄美からもブラジルへ渡る人々が現れた。2018年はそれから100年目に当たる。筆者は2018年2月25日、奄美文化センターで開催された「奄美市まなび・福祉フェスタ」に奄美からブラジルへ渡った人々を紹介するため、「奄美ブラジル移民談話会」と称し、ブラジル在住の奄美出身者のインタビュー映像やパネル展示を行った。
「親戚がブラジルへ行った」「近所にブラジルから帰国した人がいる」など、ブラジル移民を身近に感じている感想がある中、ある来場者からの「奄美でもあったんだ、ブラジル“棄民”」という感想が気になった。
ブラジル移民は“棄民”だったのか。奄美ブラジル移民100年の節目の年にもう一度ブラジル移民とは何であったのか、奄美の視点から考えてみたいと思った。
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篤常重さん(76)=奄美市名瀬出身=は15歳の時に家族でブラジルへと渡った。篤さんの兄が親戚の構成家族としてブラジルへ渡ろうとしていたが、父が「もしお前がブラジルへ行くなら俺が退職してでも一緒に行く」と言い、仕事を辞め、一家でブラジルへ渡ることにした。当時、篤さんは大島高校(奄美市名瀬、通称“大高”)に入学したばかりだったが一学期で大高を中退しなければならなかった。だから「ブラジル来てすぐの10年は残念とばかりしか思わなった」という。その時の心境は「野っ原に谷底があって、そこに(自分が)落ち込んでしまってる。上にはシートが覆い被さっていて、そこに開いた穴から同級生が自分を見ている。「おい! シゲ大丈夫か? 登って来い!」と言われても、格差があってとても登れない」と感じていた。
ブラジル移住後、2度奄美に戻った。最初は49歳の時。同級生たちが「同級生で外国に行ったのはお前だけだから、外国のニュースを知らせてくれ」と同窓会を開いてくれた。同窓会で篤さんは自分と同級生の「生活水準」に大きな格差を感じた。結婚したばかりで財産もなく生活も四苦八苦している状況にあった篤さんから見た同級生たちは学歴もあり、良い仕事に就き安定した暮らしをしていた。悔しかった。
ブラジルへ戻り「今からは日本など(二度と)思い出すものか」と一生懸命商売に精を出した。商売が軌道に乗り生活が安定した頃もう一度奄美に戻った。61歳の時だった。また同窓会が開かれたが、午後11時になると「明日も仕事があるから」と足早に帰宅する同級生たちを見て「ブラジルなら夜の11、12時はまだまだこれからなのに」と残念に感じた。もうブラジルでの生活が心地よいものになっていた。
「(ブラジル移住は)皆がみな来て悪かったというわけではない。その時の時期によって良かったとか、悪かったとかあるんじゃないか、その時それぞれ、一言では言えない」と篤さん。
奄美について語ると必ず「大高」の話になる。篤さんにとって、大高で過ごした3カ月が最も鮮やかな奄美の記憶となっている。2017年6月、筆者は東京の立教大学で奄美ブラジル移民の講演を行った。多くの奄美関係者が聴講に来てくれた。後日聴講者の一人から感想を記した葉書(はがき)が届いた。そこには「一級先輩の篤さんのことが思われる」とあった。篤さんがブラジルへ渡って今年で60年。今も〝大高の篤さん〟を偲(しの)ぶ人がいる。
* 本稿は、『南海日日新聞』(2018年4月19日)からの転載です。
© 2018 Kato Saori