2017年11月に刊行された『宇検村誌 自然・通史編』によると、鹿児島県奄美大島の宇検村からのブラジル移民は大正7(1918)年9月に長崎港から讃岐丸でブラジルへ渡航した13家族、54人が初めてのブラジル移民であった。その後、戦前・戦後を通じて81家族、491人がブラジルへと渡っており、奄美において宇検村は最もブラジル移民を輩出した「ブラジル移民村」であった。
宇検村出身の島田シズエさんは大正15(1926)年生まれ。31歳の時にブラジルへと渡った。当時のことを「私なんか一番としの方(高齢)」という通り、奄美から「妻」としてブラジルへ渡った女性の多くは20代前半であった。シズエさんは奄美で高等2年まで通ったのち、東京に住むおばのお産の手伝いをするため上京。当時のことを「親の手伝いもしなかったのに(東京へ)喜んで行った」と話す。
上京後、お産の手伝いが終わるとそのまま東京で仕事を探した。バスガールになりたかったが、おじに「(島の)言葉がダメ」と言われ紡績工場に勤め、言葉を覚えた。2年たち都会暮らしにも慣れたので念願だったバスガールになった。しかし、1年もすると戦争が始まった。空襲がひどく仕事どころではなくなったので、おばとその子どもたちと奄美へ引き揚げた。奄美に戻っても、できる仕事がなかった。父親は既に他界していたこともあり、生活はどんどん困窮していった。
親族から「仕事がないから、結婚しなさい」という声が出て、年の離れた男性と結婚した。結婚自体は望んでいなかったが「仕方なしに」承諾した。戦争が終わる頃には4人の子宝に恵まれていた。夫がある時、名瀬でブラジル移民募集の話を聞いてきた。「いい言葉」を言われ、すぐ「ブラジルへ行こう」となった。昭和33(1958)年、夫と5人の子どもと弟家族と共にブラジルへ渡った。
ブラジルに到着後、養蚕をした。移民募集の時には良い事ばかり聞かされていたが、現実は違った。ブラジルへ来ても結局は食べることもままならない生活が続いた。他の移民同様に「今より良い生活」を求めて仕事を転々とした。子どもたちが大きくなり、結婚すると、生活が落ち着いた。長女の夫が始めた漁業関係の会社を手伝った。定年を迎えると「仕事以外のことをしよう」という気持ちになり、日本舞踊を習った。奄美からブラジルに来てようやく踊りや歌を習う時間が持てた。
踊りが上達すると習った踊りを他人に教えるようになった。ブラジル在住の奄美出身者たちが建てた「奄美会館」で踊りを教える日々が続いた。「60(歳)まで仕事、仕事。踊りや歌をする暇はなかった。だから島唄も何もできんよー」と言いながら、話の途中で島唄を口ずさむ。
シズエさんによって奄美出身者の集まりが開催される時にはみんなで練習した踊りが披露されてきた。2014年9月、筆者が初めてシズエさんに会った時はもう踊りの「先生」ではなくなっていたが、皆はシズエさんの踊りを記録した映像をお手本にして練習を重ねていた。
2015年5月、シズエさんは死去。初めてお会いした日、シズエさんの次女に「あなたは(ブラジルへ)来るのが遅すぎた」と言われた。ブラジル移民の昔のことを知っている人たちがもっと元気だった頃に聞いておかなければいけなかったと。移民の語りは時間との勝負だと。
* 本稿は、『南海日日新聞』(2018年5月3日)からの転載です。
© 2018 Kato Saori