前回は、與右衛門の長男である與のシアトルでの教育についてお伝えした。今回は與右衛門の、理髪業から更に大きなビジネスであるホテル業への飛躍についてお伝えしたい。
理髪業からホテル業へ
與右衛門は、山口県蒲井からシアトルへ移住後、ワラワラに移り、理髪業を大成功させた。與右衛門は更なる飛躍を目指してシアトルに戻り、次のビジネスとしてホテルの開業を考えていた。ホテル業は当時のシアトル日本人のあこがれのビジネスでもあった。
シアトルに来た当初は、一稼ぎしたら日本へ帰ろうと考えていた與右衛門だが、與(あたえ)をシアトルへ呼び戻して家族3人で暮らすうちに、シアトルでの永住を考えるようになっていた。そのためには、理髪業よりもっと大きなビジネスに挑戦して、安定的に稼ぐ必要があった。
当時のシアトル日本人町の社会環境の変化も背景にある。シアトル日本人町は当初、日本から渡った多くの若い独身男性が支えていたが、排日移民法後の1920年代後半には独身者の移民は途絶えた。一方で、写真結婚で家族を持った一世の元にアメリカ生まれの二世が誕生していった。景気の陰りが見え始めた1920年代終盤頃には、日本へ帰国する者が増え始め、1931年の満州事変でアメリカ国内の反日世論に拍車がかかると帰国者は更に増え、日本町では働き盛りの一世が著しく減少。1920年と1935年の人口構成がその傾向を如実に示している。
このような社会環境の変化は、シアトルの日本人ビジネスへも影響を与えた。理髪業においても、文献によると1923年には過去最高の118軒にも達したが、1926年頃から日本人経営の理髪店が減り出し、1935年には36軒にまで減少した。理髪業をやめて日本へ帰る者や、他のビジネスに転向する者が多く出てきた。この傾向は理髪業だけではなく、洋服業、球場、風呂屋、和食堂など日本人対象のビジネスは同じく減少していった。逆に、このような減少が見られなかったのがホテル業だ。ホテル業は1923年には理髪業と同じく著しく増大し、1926年には191軒と過去最高にまで増え、その軒数は1928年以降も安定していた。
シアトルは日本とアメリカ本土を最短でつなぐ国際港であり、なおかつ大陸横断鉄道を通ってヨーロッパへも繋がる交通の要所であった。滞在する旅行者が多く、ホテル業に有利な立地だった。シアトルには日本人経営のホテルが多くあり、当初は渡航した日本人のためのものであったが、やがて白人相手のビジネスとしても繁栄した。
このことは、当時の新聞や史料にも記載されている。1911年2月10日の大北日報の記事の中で「旅館の今昔」と題して、「シアトルのエスラー以南にあるホテルはほとんど日本人の手によって経営され、お客も80%が白人であり、ホテルにある多数の家具類一切も日本人によって供給された」と記されている。北米日本人総覧によると、1914年頃に日本人が経営していたホテルは、主に白人相手の営業をして、食事なしで一泊1ドルないし50セントだった。これは、当時の日本円で約1~2円、現在の日本円ではおよそ1000~2000円位に相当する。北米年鑑1928年版には「シアトルの日本人経営のホテル業が200軒近くあり、お客は主に白人であり、その営業は白人の同業者を上回るほど繁盛していた」と記載されている。ホテル業も理髪業と同じようにお客は白人層だったのだ。理髪業の場合、日本人女性の手の器用さが白人に好評を博したのだが、ホテル業では、部屋にゴミ一つないようにきれいにするという日本人の持つ几帳面さが白人受けしたようだ。
ホテル業の利益率は本欄で以前お伝えしたように40%で、理髪業57%、医院50%、魚商50%、ダイウォーク業(クリーニング業のこと)44%に次いでシアトル日本人職業の中で5番目だった。ただし、ホテル開業には多額の資金を要した。理髪業は比較的少ない資金で短期間に稼げるビジネスであったが、ホテル業は投資額こそ大きいものの長期に安定して稼げるビジネスだった。
與右衛門のホテル業への飛躍
與右衛門は、理髪業での稼ぎを資金にホテル開業を考えた。理髪業は一日中立ちっぱなしで忍耐力のいる仕事であったが、ホテル業は事務処理や部屋の管理等など比較的ゆったりとできる。また、理髪業は長時間労働であったのに対し、ホテル業は深夜労働もある不規則な仕事でもあった。ホテル開業には、ワラワラではなく、人口が多く旅行客が多いシアトルの繁華街を選択した。與右衛門はこの選択に迷いはなかった。
シアトルで日本人のホテル業者は、1910年に「旅館組合」を創立していた。與右衛門も、ホテル業を始めるにあたりこの日本人ホテル業者による組合を訪ね、ホテル業の経営について教わった。1925年の大北日報によると、1月10日に約80名の出席で旅館組合総会が開かれている。以後、この総会は100名以上の参加が続き、1月と9月に定期開催された。與右衛門はこのホテル組合議長をしていた沖山栄繁(えいはん)と面識があったようだ。沖山は1928年に北米日本人会の副会長で、1930年に会長となった人物である。
與右衛門はホテル購入のために、理髪業で稼いだ資金で満たなかった不足分を銀行から借り入れた。1928年11月23日付で、シアトル横浜銀行の2000ドルの「担保保障」(Collateral Security)が2枚、計4000ドルの書類が残されている。與右衛門の自筆のメモ書きで「附加抵当」と書かれ、書類の右中央および右下に自筆のサインと一枚には印鑑がおされていた。この書類の裏側に、與右衛門は同年11月26日に4000ドルを受領していることが書かれている。銀行は與右衛門の資金計画に無理がないと判断し、貸付を行った。
当時のホテル業の平均投資額は、文献によると約9000ドル(当時の日本円で約1万9000円、現在の日本円ではおよそ2000万円程に相当)だった。與右衛門の購入したホテルが9000ドルとすると、借り入れ金4000ドルに加えて自己資金が5000ドル程必要だったことになるが、この金額は與右衛門がそれまで理髪業で稼いだお金で十分だったようだ。
このようにして與右衛門は、1928年の11月末にシアトルの繁華街であったパイオニア・スクエアのオクシデンタル・アベニュー(「オクシデンタル街三一一」と写真に記載)に待望のホテルを購入することができた。與右衛門が夢を達成した瞬間だった。與が1937年頃に撮影したホテルの写真がある。この写真は與右衛門が購入したホテルだと推測される。與が後年になって、與右衛門がかつて購入したホテルを撮影したようだ。鉄筋コンクリート造り、3階建ての、こぢんまりしたホテルだった。與右衛門は1928年にワラワラから再び生活拠点をシアトルに移し、以前に住んでいた日本町にあるニューセントラルホテルに居住した。
シアトルでのホテル経営についてはワシントン州法で非常口や火災警報装置の設置などの安全対策が定められており、それらを遵守する必要があった。そのためホテル経営はワシントン州ホテル条例に準ずる資格取得が必要だった。與右衛門は毎日のように夜遅くまで机に向かって勉強し、この資格も無事に取得することができた。與右衛門はシアトルに来て苦労が多かったが、ホテル・オーナーになるまで自分が昇りつめたことで、喜びと達成感に満ちていた。
與右衛門は、シアトルで次々にビジネスを展開していく傍らで、山口県の郷里へ多くの送金もしていた。蒲井にあった粗末な家を建て替えて、両親や兄弟姉妹、そして自分の娘二人のために新築の大きな家を造る計画を同時進行させていた。
参考文献:
寅井順一編『北米日本人総覧』中央書房、1914年。
『北米年鑑』北米時事社、1928年版。
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年。
* このシリーズは、シアトルのバイリンガルコミュニティ紙『北米報知』とディスカバーニッケイによる共同発行記事です。同記事は、筆者が日本大学通信教育部の史学専攻卒業論文として提出した「シアトル移民研究―新舛與右衛門の理髪業成功についての考察―」から一部を抜粋し、北米報知及びディスカバーニッケイ掲載向けに編集したものです。日本語版は、2019年11月26 日に『北米報知』に掲載されました。
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