ディスカバー・ニッケイ

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第21回 誕生日も畑で働く

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。1963年、日本は高度経済成長をつづけ、その様子を新聞などで知るほか、フロリダで日本製品をよく目にする助次。一方、遠い昔、故郷で植えた杉や檜を見にいって写真におさめ送ってほしいという。いきなり清里(山梨)へ行くつもりだと伝える。

* * * * *

〈池堀りであばら骨を折る〉   

1963年4月18日

美さん(義妹)、枇杷の種子、早速送って頂き有難うございました。話半分にしても大変結構な物ですから作ってみる事にします。野生同様、何処でも(日陰を除く)わけなく出来るとの事ですから、あなたも庭前にでも少し作ってみられては如何。残りの種子はガラス瓶に密封して涼しいところに置いてください。秋頃、旅行から帰って蒔く事にします。

三週間前ばかり前、池掘り準備中、丸太の橋から落ちてアバラ骨を折りましたが、やっと痛みが去りました。折悪く寒い朝で水深7吋(インチ)程だったので、風邪をひきセキやくしゃみが何よりこたえました。年を取ると足が弱くなり、一寸怪我をすると、若い時のように癒りません。


〈京都のスイカができた〉

スイカがやっと出来ました。丸い小型で京都タキイの原産Sugar Baby(ショガベビー)。直径五、六吋。二つに割ってスプーンで食べるのです。

今日は暑い。今、ちょうど午後2時ですが、室内温度華氏85度(29℃)です。北から来た人達は続々帰って行きます。これでXマス頃までは半分以上、空家になります。私は食欲は上々ですが、何を喰っても少しも太りません。年寄りの痩せたのは貧相なので、少し肥えたいのですが、思うように行きません。


1963年4月18日

〈助次は以前明ちゃんに、日本のソロバンの割り算について知りたいので参考になる本を送ってほしいと頼んでいた。〉

明ちゃん、珠算の冊子、先日うけ取った。読んで見たが、何のことだかまったく解からない。学校に行ってた頃は、算術は下手だったが、左程難しいとも思わなかった。九々さえわかれば、わけはないと思っていたが。

もう直ぐ夏だ。山登りよし水遊びよし、市中で汗みどろで我慢しているのは愚の極みだ。尤も今はエヤコンディショナー(エアコン)なんて便利な物があるので市中でも暑さ知らずで暮らせるが、自然に接するに越した事はない。

明ちゃんもこの夏はまた宮津へ行くだろう。行ったら一度栗田の先の越濱(オッパマ)へ行って見るがよい。地図で見るとバスも通っているので、歩かなくてもよい。日本海に面した岬で景色もよし、波が静かで魚もよく釣れる。それとありとあらゆるカイガラがあって、貝拾いを充分楽しめる。私も子供の頃はよく夜中に起きて釣りに出かけた。


〈故郷の杉を見てきてくれ〉

明ちゃん、一つ頼みたい事がある。嫌だろうがあんたが一番若くて足も丈夫だからあんたに頼むことにする。あんたも以前私が国を出る前、植えていた杉や檜の話を聞いただろう。それを見に行って貰いたいのだ。処は奥山の坊といって、滝馬から約半道(約2キロ)、小さな水田のある谷間で、滝馬の倉橋由蔵さんの所有になっているはずだ。

助次が渡米前に暮らしていた宮津市滝場の自宅付近

私の父の所有地だったが、借金の抵当流れになったらしい。この水田から少し離れたところに小さな谷がある。私が今から60年ほど前、種子を蒔き、苗を作り笹原を開いて植えつけておいた。生きていれば、かなりな大木になっていよう。

戦時中、切り倒されていても株はあろう。兎も角、これを写真に撮って送って貰いたいのだ。私も是非一度帰りたいと思う。先の事は何とも言えぬ。


1963年6月9日

明ちゃん、どうしている。姉さんがお嫁に行って喧嘩相手がなくなり、さびしかろう。お次は明ちゃんだが、焦ることはない。私はそれまで生きているかどうかわからないが。在米一世の壽命は平均75歳位で80を越えるのは極まれだ。

昨今雨が多くて困っている。作物は何もかも皆腐ってしまった。風が少ないので日中はかなり蒸し暑いが夜はけっこう涼しい。もう直ぐ夏休みだなあ。羨ましい。頼んだ事、必ず忘れぬように。

別に働き過ぎているわけではないが、近頃また痩せた。正味120听(ポンド)=約54キロ。ちと軽すぎるが、何を喰っても何の効もない。しかし太すぎるより安全だ。太り過ぎは心臓故障の赤信号だ。うまい物を喰い過ぎるとこうなる。

今日はサンデー。休んでから手紙を書く事にした。さようなら。


〈日本製品があふれている〉

1963年8月7日

明ちゃんへ。手紙有難う。何時も変わらぬ純情。私は繰り返し、繰り返し読んだ。こちらも随分暑い。毎年の事だが、この夏はずっと暑いようだ。百度(華氏100度=約38℃)近い。風のない時外へ出ると、目まいがしそうになる。帽子も既に二つ買った。最初買ったのは二、三日でなくした。どこかに置き忘れたのだ。どちらも日本製で安物だ。この頃はどこの店も日本品でいっぱい。日本の酒もある。

一番の流行品はニセ革作りのゾーリだ。丈夫な上、見栄もいい。私も一足買った。値段は67セント。男も女も素足にひっかけてペタペタ歩いている。TVセットも増える一方だ。日本で買うより安く買える。

これで思い出すのが一年程前、明ちゃんが手紙で暗にせがむので、一台買ってあげる事にしたときだ。日本は高すぎるので、こちら製の最大型23型を船で帰国する知人に託する事で、その旨通告したら、お母さんは気のない返事だった。

その後、間もなくお母さんの手紙に近所でテレビがないのは千人に一人位。そのうち息子に買ってもらうということだったので送るのを止めた。昔から十人に一人、百人に一人と物の比較によく言う。しかし千人に一人はちと、大げさ。「十」の間違いかも知れぬとよく調べたが立派な「ノ」の字が乗っかっていた。


〈今度は山梨の清里へ?〉

私の日本行きは確かに約束するが、時期は未定。思ったより早くなるかも知れぬ。落ち着き先は甲斐(山梨県)の清里という所。米人キャソリック教団の開拓地で富士山の近くだ。

山の坊(注)行きは見合わせてくれ。僅々(きんきん)半道(一里の半分)程の山奥だが、地図があっても案内なしでは見つかるまい。尤も倉橋さんが耕っていれば訳はないが、やせ地の山田或いは荒地になっているかも知れぬ。兎も角聞いてみてくれ。

私が作っている例の池、掘りも漸く完成だ。来年の秋頃は大きな鱒(bass)が釣れることになる。掘り上げた大砂丘の上の松林の間に湖水を見下ろした住宅を建てたいと思う。昨日も湖上でボートを漕ぐ明ちゃんを想像して見た。さようなら。

(注)宮津市滝馬地区の「山ノ坊」なる小字がある。


1963年○月×日

明ちゃん、誕生日おめでとう。

こちらも少し涼しくなったが、連日の降雨で、外仕事は何一つ出来ぬ。ストームは数回来ては逃げていったが何の被害も受けぬ。この夏、スイカは沢山あったので、大いに助かった。まめに植え付ければ年中食べられる。

雨が止み次第、日本の大根、赤と白を蒔く。漬物用で瓶詰にするのだ。日本からも来るが、高い。お茶漬けの味は忘れられぬ。


〈まだまだ死にそうにない〉

1963年11月13日

明ちゃん、バースデイのお祝いありがとう。私は相変わらず元気でちょっとやそこらでは死にそうにない。したい事はまだウンとある。八十、九十は愚か百まで生きねばならぬ。百になったら大いに祝って明ちゃんに来て貰う。

愈々、日本からの手紙は明ちゃんだけになった。私の存在はあんただけだ。どうか忘れないでくれ。私は出来るだけの事をしてきたが、金の切れ目が縁の切れ目とか。誰にも用のない者になってしまった。

これは予期したことで、今更、嘆きも恨みもしない。あんたはまだ若い。そのうちだんだん解かってくる。誕生日には朝早く畑に出かけ、あちこち見回っているうちに大雨に遭い、カーに駆け込むまでの間にずぶ濡れとなった。

時には朝から晩まで畑で過ごすので一日中、誰にも逢わず、一言も物言わぬ日がある。日本は今年も大豊作、大変な事実。誰も貯金の競争。今にアメリカ並みになろうとの事、まことに結構な話で、全く世界の驚異だ。

〈アメリカの交通事故が増える〉

こちらも秋になり、ひと雨毎に涼しくなり、朝方等かなり冷える。ストームシーズンは既に終えたので北からの避寒客もボツボツ来出した。今に人間とカーでごったかえすだろう。交通事故で死傷者は増える一方。フロリダだけで今年既に一千名近く死んでいる。山内君(列車事故で死んだ友人)などが死んで約1年、私は怖気づいて成るだけ遠乗りせぬようにしている。

先日もベビーを連れた若い婦人がトラックにはね飛ばされて即死、ベビーの首は100呎ばかりも飛んでいた。昨夜、ラジオで日本の炭鉱や汽車の惨事を聞いた。今日の新聞は写真入りで大々的に報道している。私のような出嫌いで臆病者は、飛行機にでも乗ると山にぶつかったり、海に落ちたりするかも知れぬ。

41年の昔、半時間も飛行機に乗った。別に恐ろしいとも思わなかった。搭乗料は15弗だった。今は日本との距離も縮まりマイアミから15時間ほどで行ける。私が百歳になった頃は日帰り出来よう。別に書く程の事もないので、これで止めよう。暇のある時また手紙くれ。さようなら。

不遠、野菜物が出来たら漬物にしたいから、漬物の本、至急送ってくれ。


〈日本のお茶が見当たらず〉

1963年12月30日

美さん、お手紙は先日うけ取りましたが、品はまだ着きません。度々頂くばかりでお返しもせず、済みません。

日本物は何もかもアメリカ作とほとんど見分けがつきませんが、お茶だけは日本物が見当たらず、買えるのは印度の紅茶です。日本の番茶そっくりで、私も上等な日本茶よりこの方が好きです。この次、送って下さい。

あすはみそか。どうか皆さん、お元気でお正月を迎えられるよう。

(敬称略)

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© 2019 Ryusuke Kawai

家族 フロリダ州 森上助次 アメリカ合衆国 ヤマトコロニー(フロリダ州)
このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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