私にとって人生の一番の手本になる人物は誰かと問われたら、やはり私の祖母、オバアであると答えます。これまで多くの難題を乗り越え、見返りを求めず他人を助けてきた祖母は、私にとってはまさに英雄的存在なのです。
オバアは92歳で亡くなりました。そのとき私はたったの9歳でした。その年齢差は80歳以上!そうしたこともあって、私にとってオバアは、ミステリアスな存在だったのです。私が幼かったこともあり、オバアは自分のことについては何も話してくれませんでした。ときどき特定の出来事に対してなんらかのコメントはしてくれたことは記憶しています。でも、オバアはスペイン語があまりできなかったので、対話をしたという記憶はありません。
30歳になった頃、私は祖母についてもっと知りたくなり資料を集めることにしました。母から詳しい話を聞いたり、古い写真のメモを読んだり、ボロボロの書類を修復したり、その時代背景をグーグルでいろいろ調べたりしました。
オバアは自分の娘である私の母に、士族の家柄であると話していたようですが、その詳細についてはあまり説明していなかったようです。私はこの母方のオバアと、9歳になるまで生活を共にしました。
オバアの旧姓は城間ツルで、結婚して新里ツルになりました。その後教会で洗礼を受け、「イサベル」という名前を授かりました。地区の日本人や近所の人はみな「マランビートおばさん」と呼んでいたそうです(マランビート通りに店を構えていたからです)。オバアは1918年10月、安洋丸に乗ってペルーにやってきました。母の話によると、その時21歳21歳で、新婚の「ハネームーン旅行」だったそうです。オジイ(祖父)と結婚して一時的にペルーで生活することを選んだというのです。
祖父母は当初、パラモンガのサトウキビ畑で働いていたということがわかりましたが、どれぐらいの期間そこにいたかは定かではありません。ある日私はオバアに、「モンガって言われた!」とトイレットペーパーを持って泣きつきました。姉が意地悪をして、トイレットペーパーを私に渡すときに「モンガへ」と言ったのです。です。「モンガ」には、二つの意味があります。一つは、パラモンガという製紙会社の略称で、もう一つは「おバカ」という意味でした。オバアはそのトイレットペーパーを懐かしそうに眺めながら私に、「なぜそう怒ってるの?私は、そのパラモンガ会社で働いたのよ!」と言ったのです。幼い5歳の私には、その意味は全くわかりませんでしたが、こうした出来事や逸話を整理しながら、私なりにオバアの人生を辿れるように努めたのです。
祖父母はサトウキビ畑で働いた後数年間のブランクがあるのですが、誰もその時期のことは知りませんでした。1929年、二人は小さなカフェテリアを開店しました。私は、その証拠となる書類を入手することができました。
そして数年後、我々も知っている物件を購入しました。パン屋だった店を改装してカフェテリアと自宅を一緒にしたのです。敷地はかなり広く、200平米はありました。しかし、戦争が近づくにつれ、そこに住んでいた人が徐々に離れていきました。オバアは、子供たちを日本で学ばせるために沖縄に送りました。長男のチセイは沖縄県立第二中学校に入学したのですが、戦争が始まるとすぐに軍に志願し、妹たちは、内地(本土)に避難(疎開)したのです。
オバアはよく私の母にチセイは「あのような決断をしなくても良かったのに」とよく言っていたそうです。長男であるチセイは、(ペルーの)家族の元に戻るか、入隊して戦うかどちらかを選ぶことができました。母は「洗脳」されたのであろうと言っていました。たくさんの期待が裏切られ(オバアは失望し?)、私の叔父チセイの未来は閉ざされてしまいました。爆死し、遺体も見つからなかったそうです。戦死通知はすぐにオバアにも届きまhした。その後、弔意金と遺族年金を受給することになりますが、当然それで悲しみが癒されるわけではありません。
しかしそれが後に、私たち家族が経済的に困窮したときの助けとなりました。それは1980年代の半ば、父が亡くなった時です。当時のペルーはひどい経済情勢で、大黒柱を失った母は、生計を維持することができなくなりました。オバアは、日本から受給していた遺族年金の一部を我々の生活費に充ててくれました。そのおかげで、私たちはあまり不自由なく生き延びることができたのです。
母は夫を亡くしたときは、オバアとほぼ同じような状況になりました。父はまだ50歳になる前で、我々もまだ成人していなかったので、母は一人で店を切り盛りしなくてはなりませんでした。幸いにも母はオバアの支えがあり、前に進むことができました。でもオバアが寡婦になったときは、自分自身とわずかな親戚しかおらず、母よりももっと大変だっと思います。
それでも、オバアが泣いているところや愚痴っている場面はみたことがありません。私が覚えているオバアの姿は、ときどき自分の部屋の椅子かベットに座り、一点を見つめてぼーっとしながら静かにタバコを吸っている姿です。
母によると、オバアは「孤独になることで自分と見つめ合う時間をつくっていた」そうです。その瞬間、自分の数々の辛い過去を静かに癒そうとしていたのかも知れません。
おそらく、沖縄の家族のこと、失った夫や長男のこと、良いと思って誤った決断をしてしまったこと、そしてすべて家族のためにやってきたことなどを考えていたのでしょう。
オバアは、商売ではかなり成功していました。多くの人がオバアのカフェテリアは「ドル箱」だと言っていました。だからと言って、実業家のように事業を拡大することはありませんでした。二つ目の店舗を開くこともしませんでしたし、むしろ夫とはじめた店を大事にしていました。50年以上もの間、大きな変化もせず店をそのまま営業したのです。「家族が元気で、みんな仲良くであれば良い」とよく言っていたそうです。さらに利益を得ることにはあまり関心がなく、利益がでたらそれを家族と共有していました。
戦後沖縄に里帰りしたとき、当時はまだ「日本には金がない」と言われていたため、オバアはお土産や記念品としてペルーの金の腕時計や指輪、ブレスレットを持っていきました。そうしたお土産の方が何か予期しない支出があった場合、役に立つと思ったのでしょう。また、ペルーの家族や親戚にもよくお金を「貸していた」そうですが、返済は当てにしていなかったようです。オバアは、娘婿になった私の父に対して、とても親切でした。もしかしたら戦争で亡くなった長男だと思って可愛がっていたのかも知れません。
オバアはたくさんの困難にぶつかりましたが、いつも前進しそれに立ち向かっていきました。家族愛が一番のモチベーションだったのか、今となっては分かりません。
オバアは無表情とまでは言えませんが、写真を撮る際もほとんど笑ったことがありません。後に私も知ったことなのですが、人間の表情というものはその人の生き様や厳しい試練を映し出し、どんなに幸せな日でも、末娘の結婚日でも、初孫の誕生でも、その人の生き様が表現されるそうです。オバアはたくさんの苦難を体験しそれを表に出さずしまい込んできたので、嬉しさを表現することができなくなっていたのかも知れません。私には想像ができないほどの苦労を重ねてきたと思います。あの時代ですから戦争による日本人に対する偏見も多かったことでしょうし、女手一つで店を経営することも男尊女卑社会では本当に大変だったと思います。オバアはペルーに帰化せず、常に日本国の旅券を更新していました。「いつか」日本へ帰る日が来るかもしれないと思っていたのかも知れません。オジイと一緒に沖縄に帰るのが夢だったのではないかとも思うのです。しかし、孫である我々がペルーで生まれるにつれ、その願いも彼女のタバコの煙のように薄れていったのかも知れません。
オバアには不思議な側面もたくさんありました。理解不能な習慣やなんでも治す「マジックワード」というのもありましたが、実はウチナーグチ(沖縄方言)で話していただけでした。私が何かに恐れていたときは、マブヤー(魂)を吹き込んでくれ、新しいお洋服がいつもあるように「miku miku duu gan ijuuku?(調査中)」と言っていました。オバアの沈黙は、やはり自分の苦しみを隠すためのものであり、家族に心配をかけないためだったのです。1メートル50センチぐらいの小柄なオバアは、スペイン語も達者とは程遠くでしたが、みんなからとても尊敬されていました。タメ口をきく人はいませんでした。とはいえ、そのように接するようにと言われていたわけではありません。オバアには英雄たちにある雰囲気と貫禄があったのだと思います。それまで体験してきた人生とやり遂げてきたものが、オバアに威厳を持たせたのです。亡くなってからすでに30年たちますが、私にとっては常に大きなインスピレーションと驚きの連続です。オバアは、1989年11月25日に天国に召されました。
© 2019 Milagros Tsukayama Shinzato
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