ディスカバー・ニッケイ

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第14回 南米行きか、帰化か

晩年、助次がトレーラーハウスで暮らしていた場所は、「Lake Biwa Pavillion(琵琶湖展示館)」と名付けられ、公園化されている。

南フロリダの大和コロニーの一員として渡米、コロニー解体後もひとり最後まで現地にとどまり生涯を終えた森上助次は、戦後、夫(助次の弟)をなくした義理の妹一家にあてて手紙を書きつづける。帰国するかとどまるか、長年心が揺れ動く助次だが、今度は南米に行くといったり、帰化を考えたり……。知的好奇心は相変わらずで、日本から書物を送ってほしいと頼んでいる。

* * * * *

1959年1月×日

〈アンデスの大草原へ〉

美さん、私はこの作(農作業)が終わり次第、南米行を決行します。目的地は未開の地。海抜二万呎(フィート)、アンデスの大草原、炎熱150度のアマゾンの大森林。私はすでに老齢で健康がすぐれぬ。或いは中途で斃れるかも知れない。

人間これほど、幸福な事はありません。予定はまず一ヵ年ですが、もっと長引くかも知れません。私は身体は弱っているが、気はまだまだ張っている。

宮津のワカメを送って下さったらしいですが、まだ着きません。私の病気は切開手術を受けるよりほかないです。また食後、下腹がギリギリ痛くなって困ります。今夜は少し冷たくなってきたので、電気ヒーターを股にはさんでこの手紙を書きました。

元日は終日働きました。苗床の種子蒔きをやったのです。あなた方がお雑煮をおいしそうに食べるのを心に描きながら私はスープとミルクだけで過ごしました。


1959年1月×日

旺盛な読書欲

明ちゃん、左記のアイテムを取り揃えて送って下さい。代金はステートメント受け取り次第送ります。

  • 悲しき南回帰線 (レヴィ・ストロース著) \360
  • はだか風土記 (池田弥三郎著) \160 講談社発行
  • 京都市及び京都府地図 各1部 最新刊

フロリダは急に寒くなって寒がり屋の私は手をヒーターをつけています。マイアミの友が日本の餅の缶詰を送って来ました。次のサンデーにはお正月のうめあわせができる次第です。

ワカメはまだ来ません。英和と和英の辞書のよいものを送ってください。学生用の小型で結講です。長い間、辞書を使わぬ事にしていたので,字は忘れる一方で手紙もろくに書けなかつたのです。五十年前、abcを習いはじめた時各一部買ったものはとっくの昔になくなってしまいました。いま、戸外は華氏51度(10.5℃)ですが、朝方は35度(1.7℃)位まで下がるでしょう。日本では電気シャツや電気パンツがあるらしいですが、こちらにはまだありません。


1959年1月23日 

南米行きは7月か8月に

明ちゃん、お手紙有難う。そう四角張らなくても宜い。あんたが立派な人になってくれればいいのだ。

それから南米行きは7月か8月頃になる。気候は北米の正反対で今、南米は夏の真っ盛りだ。未開地探検の体験ある人が同伴なので心配無用。

学校のお弁当、中々、御馳走だな。私の小学校の頃は皆、弁当持参でおかずは梅干しか沢庵だけだった。どうりで日本人は皆、チビになった。

郵便切手うけ取りました。1枚70円で700円、米貨で約2弗。これはあんたに借金。注文した本が来たら一緒に支払います。

フロリダは引き続き天候不順で、北風はビュービュー吹く、雨はビリビリ降る。何分、日中でも60度(15.5℃)位だからやりきれぬ。北部は大変な寒さで多くの人が凍死した。

日本へも一度行きたい。何時のことか。この年になり、あれもしたい、これもしたい。したい事だらけで何も出来ぬ。若い人がうらやましい。


1959年2月5日

「蕎麦ぼうろ」に舌鼓を打つ

美さん、何より結構な品をありがとう。今、グッドコンディションで着きました。早速、京都名物蕎麦ぼうろ、試みました。何という好い味、やはり日本人には日本の物が口に合う。こちらのクッキーはやたらに甘いばかりで真の風味がない。そのうえ、日本の包装の優美さ、これだけは他の国の追随を許さない。

柿と蛙、何という諷示的な画でしょう。いくら眺めても見飽きない。額にはめることにしました。失敗ばかりしている私には何よりの刺激です。

橋立名物の焼き和布(?)はまだ味わいません。缶がどうしても開かないのです。

私は至極壮健にて多忙に暮らしております。昨今、気候が不順なので仕事がとんとはかどりません。どうか皆さんお大事に。先ずは御礼まで。


1959年3月14日

靴ばきのまま仮眠してしまう

私は相変わらず多忙な日々を送っております。朝から晩まで仕事で、中々容易ではありません。晩、家に帰るのは7時過ぎで、すでに真っ暗です。腹は空いており、疲れてちょっと一休みとカウチ(寝椅子)で靴ばきのまま横になると、つい仮眠してしまうことがあります。

眼が醒めるのは10時過ぎか、時には12時過ぎで、それからコトコト夕餉の仕度。今は新聞を読む暇もあります。朝は大抵5時頃、眼が醒めます。私は昨今、極めて健康。ただ近い将来を夢見てモクモクと過ごしております。

多少の事こそあれ、50年前と同じ心境です。だが、時には不快でたまらぬことがあります。人間の勝手さ、義理もへチマもあったものではありません。特に、ティーンエイジャーの無責任さ、図々しさには、無邪気を信じていただけに尚更、癪(しゃく)に触ります。彼らに対する私の考えがだんだん変わって行くのはやむを得なせん。


人同じからず

今冬は別に寒さも来ず、避寒客も大満足でした。明子に注文した書籍や地図、二、三日前に着きました。丹後辺の地図も大した変り方です。山や川は昔のままだが、人同じからず(注)、私は時折、こんな事を考えます。アァ夜も大分更けてきました。今夜はこれで失礼します。ではくれぐれもお大切に。

(注)中国初唐の詩人、劉廷芝(りゅうていし)の漢詩「白頭を悲しむ翁に代わる」の一節が「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」。助次はこの一節「人不同=人同じからず」をさらりとしのばせている。

まだスペースがかなり残っている。序(ついで)に少し書くことにします。二、三日前、畑に落としたポケットウォッチ(懐中時計)が見つかりましたが、トラクタ—に押しつぶされていて駄目でした。

安物でしたが、中々よい品でおしいことをしました。やむを得ず今日、また新しいのを買いました。雇人は皆、時間制なので、正確な時計が必要なのです。私は黒人を一人雇っていますが、一日9時間働いて7ドル払っています。自家用に作った野菜類が立派に出来ていますが、クックする技のない私が使うのは僅かで、大部分は友人や近所の人達にあげています。店で買うと中々高値です。

今日、終日東北の暴風でした。今夜は少し、おとろえました。空は一面、曇っています。時々は降雨との予報です。ではお休みなさい。

1959年3月28日

遊んで暮せぬ、損な性分

美さん、小包、今日到着しました。色々、珍しい物、ありがとう御座います。今、丁度午後11時半過ぎ。宵のひと寝入りから目覚めたばかりです。毎日毎日朝から晩まで植付け仕事で随分疲れます。

馬鹿な奴、なぜそんなに働くのかと問われるとちょっと返事に困ります。遊んで暮せぬ、損な性分、熱中するとつい無理をするのです。

この月も後3日で終わります。来月の10日には皇太子さんが結婚されるとか。日本もちょっと社会がわくことでしょう。また眠くなりました。お茶でも飲んで休むことにしましょう。先ずは御礼まで。


1959年9月26日

〈一時、思い込んでいた南米行きの話はその後、手紙の中ではあまり触れられることはなくなった。その前にまずは帰化することを考えたようだ。〉 

帰化に決し、試験の準備に取りかかる

私は相変わらず怠けている気でおります。何もすることがないのです。こんな事は生まれて初めて、自分でも不思議に思っています。何分、頭がぼっとして記憶は全く駄目、大事なことは一々手帳に書いておかないと直ぐ忘れてしまいます。

熟考の上、帰化することを決し、帰化試験の準備に取り掛かりましたが、記憶が悪いのでパスの見込みなく一時中止することにしました。試験といっても生やさしいもではありません。この国の国体、歴史、地理、政治など高校卒業ていどのことを頭に入れなければなりません。

私は相変わらず痩せこけております。余り好まないミルクを水でわって飲み、その他の滋養物も取っていますが、とんと効果はありません。もっとも、肉類は歯がないので食べられず、なにより好きな漬物も味わへません。

この国でも高血圧で苦しむ人が多く、特に中年の男に多いようです。この病気は寒さがよくないので、北部からの移住者は年々増える一方です。


1959年10月6日

〈帰化しようとしまいと、大した事なし

美さん、お手紙、ただいま、受け取りました。皆さんは無事で安心しました。当地はしごく、平穏ですが、雨が多いのは困ります。

土地の開墾、農具の購入等、莫大な費用をかけましたが、何分、身体が以前のようでないので、作物は中止する事にしました。大故障は歯と腸が原因らしいので、まずこの方の手入れをする事にします。

帰化の件ですが、私自身は今のままでいようと、米国人になろうと、大した事はありませんが、子供達をこちらへ呼び寄せるときには、なにかと好都合なのです。何年経っても生まれ故郷はなつかしいが、半世紀もたつと、どこかの外国のような気がします。でも一度帰ったら気が変わるかも知れません。

(敬称略)

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© 2019 Ryusuke Kawai

家族 フロリダ州 森上助次 アメリカ ヤマトコロニー(フロリダ州)
このシリーズについて

20世紀初頭、フロリダ州南部に出現した日本人村大和コロニー。一農民として、また開拓者として、京都市の宮津から入植した森上助次(ジョージ・モリカミ)は、現在フロリダ州にある「モリカミ博物館・日本庭園」の基礎をつくった人物である。戦前にコロニーが解体、消滅したのちも現地に留まり、戦争を経てたったひとり農業をつづけた。最後は膨大な土地を寄付し地元にその名を残した彼は、生涯独身で日本に帰ることもなかったが、望郷の念のは人一倍で日本へ手紙を書きつづけた。なかでも亡き弟の妻や娘たち岡本一家とは頻繁に文通をした。会ったことはなかったが家族のように接し、現地の様子や思いを届けた。彼が残した手紙から、一世の記録として、その生涯と孤独な望郷の念をたどる。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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