ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/9/28/uwajimaya-20/

第20回 家族をつないだ母の力

富士松、貞子夫妻(宇和島屋店内のポスターより)

モリグチ・ファミリーの結束によって成長してきた宇和島屋だが、その結束を生んだのは、それぞれの家業に対する愛情であり、創業者の森口富士松・貞子という両親に対する7人の子供たちの思いやりだった。裏を返せば、両親、とくに母貞子の家族をつなぎとめる役割は大きかったようだ。

出稼ぎ的に渡米した移民一世の生活は、たいてい悪戦苦闘の連続である。森口夫妻も決して豊かではない生活のなかで、子供を育てながら土日もなく身を粉にして働いてきた。その両親の姿をみて、子供たちは小さい頃から自然と家事や商売を手伝ってきた。

明治の昔の日本の男といった父親の富士松は、身長160センチほどと小柄だが、がっしりとした体格の持ち主で、表向きはぶっきらぼうな感があり、厳しく冗談の一つも言わないような人だった。「裸一貫で生まれてきたんだから、なんでもいいと思うことをやってみろ」というのが口癖だった。「目上のものを敬え」、「お客さんは大切しろ」というのが信条だった。


だれにも親切で、やさしく

一方、母親の貞子は、糟糠の妻らしく常に夫をたててきた。物静かで控えめで、穏やかで、怒ることはめったになかった。それでいながら内面に強い意志を秘め、凛とした威厳を漂わせることもあった。

子供たちにはやさしく、また、お客はもちろんのこと、困っていた日本人移民や日本人の船員、そしてアメリカ人と結婚してシアトルにやってきた日本人の“花嫁”たちにもやさしく接し、商売抜きに手助けしてあげることもあった。音楽や芸術について理解があり、まさに子供たちにとっては、理想の母親だった。

貞子は、岡山県出身の蔦川彰三(Tsutakawa Shozo)とヒサとの間の九人の子供の三番目として、1907年10月16日シアトルで生まれた。 蔦川はシアトル市内で貿易商として成功し、Tsutakawa Companyを立ち上げ、主に材木や金属の廃材を日本に輸出、日本からはさまざまな商品を輸入していた。

貞子は5歳の時、日本で教育を受けさせようという父親の考えから、日本の母方の郷里に送られ、祖母のもとで育てられた。教養があり、詩歌や書道や能や歌舞伎などに精通していたこの祖母の影響で、貞子はこうした芸術的な素養を身につけた。

有名な彫刻家であり画家でもあるジョージ・ツタカワは、貞子の弟で、彼女と同様に子供のころ日本で学び、アメリカへ戻ってきた。

富士松がシアトルに来た当時、貞子はまだ日本にいたが、彰三は若き日の富士松の働きぶりに感心し、彼を娘、貞子の結婚相手として見込んだ。1931年に貞子が日本からシアトルに戻ると、彰三が貞子を富士松に引き合わせ、その後二年ほどの付き合いをへて33年に結婚に至った。


それぞれの母への思い 

母親としての貞子について、子供たちはどう見ていたのか。忙しくしていた両親を手助けすることから家業に入り、中興の祖として長年社長の座にいた二男のトミオはこういう。

「いつも平静で、公平な見方をし、人当たりがよく、だれにでもよくしていた。人を身分や肩書きで判断せず、日本からの学生や船員たちによくご飯をごちそうしてあげていました。店の上階のホテルに住んでいた独身者が病気になったりすると、母が面倒をみてあげていた。家族のない人に優しくしていたし、頼りにされていた」。

幼いころ日本にいた長女のスワコには、母がとても教養のある人として映っていた。また、長女だからか、母の毅然としたところも覚えている。

「働き者で、いつもなにかしていました。母が言ったことで覚えていることがひとつあります。『もし、お客さんに失礼な態度をとったり、嫌な顔をしたりするんだったら、お店にでなくていい』。そう教えられました」

四男のトシ(トシカツ)が覚えている母は、いつも相手のことを考え、お客さんのことになると家族のことまでそらんじていたという母の記憶力だ。貞子がだれに対しても同じように接していたことは、「母の葬式には、信じられないことだが、みんなが母について同じようなことを言っていた」というトシの言葉からわかる。

「母は家族のなかのだれをも公平に扱っていた。私が最初に結婚した時も、妻を自分の本当の娘のように扱ってくれた。母のことを思うと『親切』ということが思い浮かぶ。私の子供たちにもそういうことを伝えたい」と、トシはいう。

二女のヒサコは「とっても穏やかで、とってもやさしくて、いつもだれにでも良くしていた」と強調する。「私の覚えている限り、母はいつも店で働いていた。85歳まで働いていたと思う。お寿司を作っていた。私もよく巻き寿司をつくるのを手伝ったものです。大晦日に、500個もの巻き寿司と2,3千個のいなり寿司を一緒につくったの。深夜の3,4時までかかってつくり、終わると店に出して準備した」

三女のトモコは、母について「とても文化的で、教養があって、音楽にも詳しくて、私たちに美術も教えてくれた」と、話す。 

旅行が好きで、音楽に親しんだ貞子(Sadako)は、2002年7月25日、94歳で亡くなった。夫富士松が亡くなってから40年後のことだった。

(敬称略)

 

© 2018 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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