ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/8/24/uwajimaya-18/

第18回 移転、そして拡充へ

ファミリーの結束のもとに

創業者、森口富士松の亡き後に、二男トミオが社長に就任した宇和島屋(Uwajimaya)は、長男ケンゾー、三男アキラ、四男トシの四兄弟が中心になり事業を広げていった。1962年の万博への出店を契機に、顧客の層が日系、アジア系以外にも広がってきたことがその大きな要因だった。

店では、アジア系料理の料理教室を開いたり、日本以外にも中国、韓国、フィリピンなどアジアの国からの商品を置くようにして、多様なニーズに応えるようにした。そしてこうした流れのなかで1970年、宇和島屋はこれまでのメイン・ストリートから、現在の宇和島屋のあるウワジマヤ・ビレッジのすぐ近く、6番街とキング・ストリートの角に店舗を拡大して移転することになる。

きっかけは、これまでの事業展開と同じようにコミュニティーのなかの人間的なつながりだった。トミオ・モリグチによれば、当時友人のシゲコ・ウノからある提案をうけた。彼女は、レーニア・ヒート&パワー(the Rainier Heat & Power)社の帳簿係からはじめて役員になった人物だが、トミオと彼女は誕生月がともに4月で、もうひとり同じ誕生月の友人のドクター・トダと三人で毎年4月に立派な夕食会を開いていた。

この会の席上で、ドクターが彼女に、「6番街とキング・ストリートの角の不動産物件を宇和島屋に貸したらどうだ」と勧めた。トミオは、「だめだよ、そんなの大きすぎるし、手に余る」と断った。しかしその後、彼女からトミオに連絡があり、会社のほかの役員がトミオに会いたいと知らせてきた。

キング・ストリートの宇和島屋の正面(宇和島屋提供)

そこで、ウォーター・フロントのポリネシアン・レストランでこの件について話し合った。同席した役員はかなり権限があるようで、「あなたたちが買うのは無理のようだが、いろいろ案を練ってみましょう」ということになり、その結果宇和島屋はその物件(建物)を借りて、1970年から新たに営業することになった。

あとになってわかったことだが、貸し手の会社はテナントとの間にトラブルを抱えていた。テナント側が、賃貸料を上げるのなら出ていくという、半ば脅すような姿勢をとっていた。結果として宇和島屋は、適正な家賃で借りることができたのだった。


結婚、不動産購入

この間、社長のトミオにはプライベートなことでも大きな変化がった。移転する直前の1969年にハワイ出身の日系の女性ラベットと結婚する。トミオの知人が、彼女を含めて三人のハワイ大学出身の女性を連れてきてトミオに紹介したのが縁で知り合い、当時母親と一緒に暮らしていたトミオのところにも訪れるようになり、しばらくして結婚にいたった。

二人の間にはしばらく子供ができなかったが、やがて一男一女をもうける。トミオによれば、当時の日系の同年代の家族同様に、妻は家庭に入り、子供たちが5、6歳になるころまではいわゆる専業主婦をして、その後店の仕事を少しずつ手伝うようになったという。

話を新店舗に戻そう。キング・ストリートは、中華門という横浜の中華街にあるような門からつづく通りで、周辺は俗にチャイナタウンとも呼ばれるが、ここは旧日本町があったところでもあり、その後はタイやベトナムなどアジア系のレストランなども点在し、シアトルの「インターナショナル・ディストリクト」という地区名になっている。

この中華門を入ってすぐ右側の平屋の建物が、移転した宇和島屋の店舗で、総床面積は約560坪と、北西太平洋岸の日本食を扱うスーパーではもっとも大きな規模になった。この計画が幸いしたのか、事業は堅調に推移し、74年には店舗のある一画を買い取ることになった。ただし、その一角にある古いパブリックス・ホテルも含めてすべてまとめて買い上げることが条件だった。


店舗を拡充し基礎をつくる

相手がいち早く土地と建物を売却したがっていたという事情もあり、結果的に売却の話はスムーズに進み、宇和島屋はそれまで店舗のあったメイン・ストリートの不動産も担保にして一画を取得した。さらに4年後の78年には、店舗に二階部分を増築し、床面積も約8割拡張された。

日本人形も並んだ宇和島屋の店内(宇和島屋提供)

改装によって店舗内は、まずメインの食品関係の売り場が充実した。新たな食肉、青果コーナーができたほか、鮮魚売り場が生け簀を備えて拡大、また、総菜販売やテイクアウトのコーナーも設けられた。このほか、工芸品などのギフトや書籍類、レコード、衣類、キッチン用品、化粧品、さらに日本の着物や布類も置かれるようになった。こうして、その後の宇和島屋の基本形ができ上ったといっていい。

同じ78年には、十数キロ東にあって急速に人口が増えつつあったクロスロード地区に宇和島屋ベルビュー店(Uwajimaya Bellevue)も出店させた。

(敬称略)

 

© 2018 Ryusuke Kawai

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このシリーズについて

アメリカ・ワシントン州シアトルを拠点に店舗を展開、いまや知らない人はいない食品スーパーマーケットの「Uwajimaya(宇和島屋)」。1928(昭和3)年に家族経営の小さな店としてはじまり2018年には創業90周年を迎える。かつてあった多くの日系の商店が時代とともに姿を消してきたなかで、モリグチ・ファミリーの結束によって継続、発展してきたその歴史と秘訣を探る。

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執筆者について

ジャーナリスト、ノンフィクションライター。神奈川県出身。慶応大学法学部卒、毎日新聞記者を経て独立。著書に「大和コロニー フロリダに『日本』を残した男たち」(旬報社)などがある。日系アメリカ文学の金字塔「ノーノー・ボーイ」(同)を翻訳。「大和コロニー」の英語版「Yamato Colony」は、「the 2021 Harry T. and Harriette V. Moore Award for the best book on ethnic groups or social issues from the Florida Historical Society.」を受賞。

(2021年11月 更新)

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