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分離不安:酷似する過去と現在の状況

毎日絶えず報道されている、トランプ大統領が移民政策として実施している「不寛容政策」のニュースを見るたび、私の目には涙が浮かびます。“無慈悲”と呼ばれることの多いこの政策は、中央アメリカからの亡命志願者をけん制するための欠陥政策で、彼らを子供たちから引き離すことで、“罰して”いるのです。両親と二度と再会できない子どもたちもいるかもしれないと思うと、私は精神的に疲弊し、苛立ちます。最終的に再会できたとしても、直接受けた精神的影響は子どもたちの自負心や自尊心に生涯傷を残すでしょう。

移民の国、そして移民が来る前は先住民の祖国、アメリカへようこそ!

今回のニュースがきっかけで、私の子供時代の出来事のおぼろげな記憶や感情がよみがえりました。

第二次世界大戦中、1941年から45年、私たちきょうだい4人は両親から無理やり引き離されたわけではありません。しかし、現在ホンジュラスやエルサルバドル、グアテマラなどの危険な犯罪がはびこる中央アメリカの国々から逃れてきた移民の家族に対して米国がしていることと同じように、私たち家族も、意思に反して離れ離れになるというひどい状況を余儀なくされました。

母、キミエ・オノ

1944年5月27日、母はコロラド州デンバーで弟を生んだ直後、結核にかかりました。私たちはデンバーには1年もいませんでしたが、母は4人の子どもたちと夫と離れ、結核患者の療養所に入らなければなりませんでした。父は、米国戦争情報局と共に英国軍の政治戦執行部で日本向けの極秘プロパガンダ放送の仕事を続けていました。

5歳のスタンレー、4歳の私、3歳のサンドラ、そして生まれたばかりのビクターのきょうだい4人は、親戚のオノ家とオカムラ家が収容されていたグラナダ、別名アマチ収容所に戻されました。母がいる場所から246マイル(約395キロ)、車で5時間離れていました。

私たち4人は、強制収容所では3ヵ所の小屋に分かれて母方の祖父母、父方の祖父母、そしておばの世話を受けました。両親とは半年以上離れ離れでした。

写真:アメリカ国立公文書記録管理局

ゲイリーの報告カード

アマチ保育園のメイ・フジカワ先生による、報告カードの感情コントロールの項目にはこのように書かれていました。

「ゲイリーは犬を怖がっていて、すぐに動揺します」

私が犬から逃げようと溝に飛び込んだ時だったと思います。4、5歳の頃の私は、認めたくないのですが、少々“泣き虫”でした。私は分離不安を抱えていたのでしょうか?

(和訳)感情コントロール: ゲイリーは犬を怖がっていて、すぐに動揺します。すぐに泣いてしまう傾向があり、家族への愛着が強いです。

収容所での犬の事件と、当時たくさんの人がペットと引き離されたことについて、2012年に二部構成のエッセイ、“Doggone It(ちくしょう)”を書きました。外見が敵国民と似ていることを理由に、政府は西海岸に住む11万人の日系人を家やビジネスから強制的に退去させ、国内10か所の収容所に強制的に拘留したのです。ペットを飼っていた人の多くが、分離不安を抱えていました。

収容所時代の写真には、きょうだいで写っているものが多いことに気付きました。その多くが、半年以上ボルダ―の療養所に一人でいた母と共有されていたのだと想像します。きょうだいも私自身も、母から離れていたことを知っていたのでしょうか?

アマチ収容所の子供たち、左からいとこのフィリス・オカムラ、ゲイリー、サンディー、スタンレー、近所の子と思しき子ども(ビクターは写っていない)

妹のサンディーは、1942年8月5日にマーセド集合センターで生まれ、その1ヵ月後の1942年9月にアマチに移りましたが、1944年、当時2歳だった妹に母を“恋しく思った”記憶はありません。母は、雑な造りの集合センターで出産した直後、“より永久的な”収容所に移りました。今の私には、母が抱えていた必要以上のストレスを想像することしかできません。1943年、アマチ収容所の建設現場の事故で、母は仲の良かった当時27歳の兄、ヒロシを亡くしました。それからあまりにも長い時を経た1980年代、賠償の議論が始まってからも、母は戦時中のことを話したがりませんでした。そんな母を、誰が責められるでしょう?

私は、1歳年上の兄、スタンレーともこの話をしたことがあります。以前兄は、収容所時代のことも、母を恋しがっていたこともあまり考えたことがないと言っていました。私は別の報告カードの話を出し、間違いなく兄は「母を恋しがって泣き、結果的に二人とも泣いた」という話をしました。兄はこのことを受け入れたものの、それでもはっきりとは覚えていないと言いました。私も母の不在を明確には覚えていませんが、私たちの行動は“分離不安”が原因だったと思うのです。

(和訳)感情コントロール:お兄さんがお母さんを恋しがって泣くと一緒に泣いてしまいますが、うまく適応できるようになりました。

当時新生児だったビクターは、“自分がこういう人間”なのは母乳を与えられなかったことが一因だと今では冗談を言いますが、弟には専門家に話した方がいい潜在的な感情があるのではないかと私は思っています。弟は、私たちのバアチャン、コトラ・オノへの愛着が特に強かったと自覚していて、バアチャンはよく涙を流し、しょっちゅう目元を拭いていたことを覚えていました。私もその記憶はありますが、私の場合は収容所から解放されたずっと後の出来事として覚えていました。

アメリカ政府には、”自己陶酔的”と呼ばれることの多いトランプ大統領のもと、引き離され、散り散りにされたすべての移民の子供たちを苦しんでいる両親に返し、彼らが間違いなく抱えている分離不安を終わらせてほしいと思います。しかし当事者の多くは、犯罪的に無能で慈悲の心を持たない政権に放置されるのではないかと心配です。私たちオノきょうだいの苦しみは、現在問題となっている移民の子供たちや、過去に不当に扱われた先住民、アフリカからの奴隷たちの苦しみには及ばないと思いますが、状況は酷似していると思うからです。

 

© 2018 Gary Ono

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執筆者について

サンフランシスコからリトルトーキョーへ移り住んだ日系三世。近所の全米日系人博物館でボランティアのカメラマンとして活動している。2001年にはカリフォルニア人権公教育プログラム(California Civil Liberties Public Education Program)から助成金を得て、ドキュメンタリー映画「Calling Tokyo: Japanese American Radio Broadcasters of World War II」(訳注:第二次大戦中に米英軍が日本に向けて行ったプロパガンダ放送に参加した日系アメリカ人アナウンサーについてのドキュメンタリー)を制作。このドキュメンタリーの題材となった第二次世界戦中の父の仕事がきっかけで、日系アメリカ人と家族史に興味を持つようになった。

(2013年3月 更新) 

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