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「YES」か「NO」 それぞれの決断:祖父の体験語り継ぐ孫たち ー 第2部

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プロジェクト通して伝えるツチダさん

強制収容所に収容されていた人々の話を伝えるプロジェクト「鉄柵」を進めるダイアナ・エミコ・ツチダさん

日系史の研究活動をしているダイアナ・エミコ・ツチダさんは、強制収容所に入所していた日系人から話を聞き、彼らの経験や当時の生活などを伝えるプロジェクト「鉄柵」を進めている。第1部で紹介した日系人画家ロブ・サトウさんの祖父とは逆に、ツチダさんの祖父は戦時中、アメリカに忠誠を誓わず、忠誠登録の質問に「NO」と答えたひとり。正反対の祖父を持つ2人に、それぞれの思い、そして家族の物語を聞く第2回。今回はツチダさんの祖父タモツさんの話をお届けする。


「NO―」、忠誠誓わなかった祖父

ツチダさんは3年前にプロジェクト「鉄柵」を始動させた。同プロジェクトは、幼い頃、強制収容所に収容された経験を持つツチダさんの父ミツキさん(81)の話を聞くことから始まった。「父が強制収容所で大変困難な時代を過ごしていたと聞いていました。なぜなら祖父タモツが米政府の忠誠登録の質問に『NO、NO』と答え、一家は不忠誠者とみなされていたからです」

ツールレイク強制収容所での祖父タモツさん(ツチダさん提供)

父ミツキさんが5歳の時の1941年12月7日、真珠湾攻撃が勃発。日系人は「敵性外国人」とみなされ、43年に強制収容所に送られた。そして当時の米政府に「アメリカ軍に志願する意志があるか」「アメリカに忠誠を近い、日本国天皇への忠誠を破棄するか」といった質問をされたのだった。この2つの質問に「No、No」と答えた日系人は、不忠誠者の隔離センターであるカリフォルニア州のツールレイク強制収容所に収容された。ツチダさんの祖父タモツさんもそのひとりだった。「一家はツールレイク強制収容所に収容されたため、幼かった父は良い思い出がないと話していました」

ツールレイク強制収容所で短期間発行され、詩や俳句などを紹介していた日本語雑誌「鉄柵」のオリジナル版

プロジェクト名となっている「鉄柵」は、ツールレイク強制収容所で短期間発行され、詩や俳句、随筆などを紹介していた日本語雑誌「鉄柵」からきている。

父ミツキさんの話を聞くにつれ、ツチダさんは当時の日系人がどんな思いで強制収容所での日々を過ごしていたのか興味を持つようになった。次第に父の友人にもインタビューをするようになり、いつしかプロジェクトに発展していった。

コミュニティー内で分断も

当初一家はサンフランシスコに住んでいたが、第二次世界大戦が始まるとサンタアニタ競馬場に設けられた収容所に行き、その後ユタ州にあるトパーズ戦時転住所に、そして祖父タモツさんが忠誠登録の質問に「NO、NO」と答えた後、ツールレイクに収容された。

「祖父は正義というものに対して怒りを覚えていたといいます。祖父は日本で教育を受けた人。だからより日本に対して熱い思い入れがあったのだと思います」

米国にわたりサンフランシスコで生活していた祖父タモツさんは、職業紹介会社を経営していた。しかし戦争勃発後、当時の米政府にすべてを奪われた。「会社も大切にしていたカメラもすべてを取り上げられました。『こんなのフェアじゃない』と祖父は思ったのです。そしてそれを声にすることを恐れない人でもありました。だから彼は『NO』と言ったのです」

幼少の頃をツールレイク強制収容所で過ごした父ミツキさん(左)と友人

一方、アメリカで育った父ミツキさんにとって、日米の考え方の違いから心の中では葛藤が生じていたという。「父は学校では厳格な帰米の教師に教育されました。毎朝、生徒たちは天皇陛下がいる方角に向かってお辞儀をさせられたと聞きます。『右を見ても左を見てもアメリカなのに、なぜお辞儀をするのだろう』と幼い父は思ったと話してくれました」

ツチダさんにとって、サトウさんの祖父のように忠誠登録の質問に「YES」と答え、自身の祖父とは正反対の決断をした人々のことはどう感じているのだろう。

以前ツチダさんは、第442連隊の退役軍人を父に持つ人に話を聞いた際、「YES」と答え第442連隊に所属した人は、「NO」と答えツールレイク強制収容所に行った人と口も聞かなかったという話を聞いたことがあったという。「ひとつのコミュニティー内で発生した『YES』派と『NO』派との分断に、とても心が痛みました」とツチダさんは振り返る。

「『YES』と答え、第442連隊に所属した人は『この国のために命をかけて闘う。この国のためなら死ねる』と思い出陣していきました。サトウさんの話を聞き、そうした彼らの思いにはとても心を打たれました。一方で、自分たちを強制収容所に閉じ込めた当時の米政府のために命は捧げられない、と『NO』と言えた祖父の決断、そして勇気をとても尊敬しています。強制収容所での生活を知る人が少なくなっている今、少しでも多くの人に彼らの本当の声を知ってもらいたいのです」とツチダさんは力を込めた。

マンザナ強制収容所跡地で毎年行われている追悼式典に昨年出席した父ミツキさん

 

* 本稿は、「羅府新報」 (2018年5月9日)からの転載です。

 

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