ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2018/10/8/grandmothers-new-years/

食とアイデンティティについて:私の祖母のお正月

日本のお正月は、他のいくつかの伝統と同様、私の曽祖父母を含む大勢の人たちがより良い未来を築くために日本を離れアメリカへやってきた時、大きな変化をとげました。私が物心ついた頃から、祖母はずっとお正月の指定主催者で、元日の何日も前から準備を始めていました。私も両親と兄(弟)とオレンジ郡からロサンゼルスの祖母の家まで車で出かけて行き、毎年準備を手伝っていました。

私が記憶している限り、お正月はワクワクする行事でした。でもそれは、単においしいものが食べられるというだけでなく、自分が真に日系人だと感じられる数少ない機会だったからです。アジア系住民がほとんどいないコミュニティで育った日系アメリカ人四世の私は、日本文化に触れる機会はもとより、日本食を食べる機会もほとんどありませんでした。そんな中でお正月は、それがほんの一瞬だとしても、家族も私も自分たちの伝統に近づける数少ないチャンスでした。

祖母のお正月の準備は、地元の日本食スーパーに出かけるところから始まりました。出来合いのすしやお弁当セットで妥協するのではなく、できるだけたくさんの伝統料理を作ることを祖母は重視していました。スーパーの通路を行ったり来たりするうちに、私はこういった機会でもない限りはほとんど目にすることのない日本の食材に詳しくなりました。袋詰めの乾燥シイタケ、皮付きのサトイモ、長いゴボウが、魚卵やカマボコ、楕円形の白いレンコンなどと一緒にカートに乗せられていきました。

次のステップは決まって刺し身でした。伝統的なお節料理ではありませんが、刺し身はどういうわけか祖母のお正月料理の定番となり、ごちそうに欠かせない一品になりました。朝早く祖母の車に乗り、まだ半分寝ている状態で刺し身用のマグロやハマチ、タコの切り身を受け取りに6番通りのパシフィック・フレッシュ・フィッシュ1まで行ったのをよく覚えています。家に帰って他の準備をする間、買ってきた魚貝は冷蔵庫に入れておきました。

アジア本来の流儀に沿って、私たちは家の隅々まで掃除をしました。ピカピカになるまで床を磨き、洗面所のタオルをすべて取り換え、玄関テラスから裏庭のテラスまで一年かけて溜まったホコリや汚れを洗い流しました。その間キッチンでは祖母が複数の鍋を沸かしながら、カウンターにまな板を並べた流れ作業台で刻んだり皮をむいたりさいの目切りにしたりしていました。恐らく私は、大きくなるまでは役に立つより邪魔になることの方が多かったと思いますが、成長と共に祖母は私に少しずつ仕事を割り振ってくれるようになりました。そして大晦日のキッチンという、計画された混沌の中へ、ゆっくりと、先へ先へと引き入れてくれました。

料理の中で特に際立っていたのは、祖母の鯖ずしでした。家族のレシピは祖母の母から受け継がれたもので、お正月のごちそうの中でも一番の目玉でした。私が覚えた最初のお節料理のひとつでしたが、ものすごく時間がかかり、とても難しい一品です。鯖の切り身に覆いかぶさるように背中を丸め、指がとれてしまうのではないかと思うまで毛抜きを使って骨を抜きました。鯖の皮むきはまた全く違う挑戦で、鯖独特の銀や青は残しつつ、皮をはがすのがコツでした。私はほとんど毎回失敗していたので、自分で下処理をした鯖は、銀や青の光沢に不器用につけられた切り傷やひっかき傷ですぐわかりました。

元日は、お雑煮と焼き餅で始まり、リビングのテレビにはローズ・パレード2が映っていました。まだ終わっていない料理があるので、ゆっくりできる時間はほとんどありません。お節料理はお正月前には出来上がっていなければならないという伝統的な考えとは裏腹に、私たちは少なくとも料理の半分は元日に作っていました。エビの天ぷらを揚げるための揚げ鍋を2つ外に出し、その間キッチンでは完成が待たれている鯖ずしと稲荷ずし用に、いくつものバットに入ったご飯を祖母が冷まします。カウンターでは母がサシミを切り、コンロでは大抵もう一品調理中です。恐らくそれは、前日どういうわけか作り忘れたキンピラか昆布の佃煮でしょう。アドレナリンが出るのは毎年のことで、最初に到着した親戚がドアを通るまでに全て用意できていたことは一度もありませんでした。慌ただしくはありましたが、急ぐ価値は常にありました。

どんなお節料理セットより大胆で盛りだくさんの祖母のお正月は、本当に目を見張るものでした。長く伸ばしたダイニングテーブルの先まで、数日かけて作った伝統料理が日本のしゃれた皿に盛りつけられ、親戚が持ってきてくれた豊富な料理も加わりました。ワンタンやポテトサラダ、7層のゼリーが、カズノコや栗きんとん、レンコンの酢の物と一緒にもどかしいほど美味しそうに並んでいました。伝統的な日本の要素は、アメリカナイズされた味と個性で補われ、さまざまな意味で私たちの日系アメリカ人としてのアイデンティティを正確に反映していました。

時を現在まで早送りしましょう。お正月は2、3か月後に迫っています。時間の経過とともに、変化は避けられません。祖母は、もうここにはいません。数年前に旅立ちましたが、あまりにも早すぎる死でした。何十年にも渡ってお正月を祝ってきた家もなくなりました。その後、この伝統は母に受け継がれましたが、今後もお正月は続けられるのだろうかという疑念は、祖母がいなくては目的の支柱を失ったかのように、毎年心もとなく背後に漂っています。母は、今のところまだ一度もお正月の開催を見送っていませんが、お正月は時間と労力、お金がかかるものだという母の見方と、お正月は必要であり不可欠なもの、単に日系アメリカ人であることの一部だという祖母とでは、著しい隔たりがあります。

お正月は、私たちが祖母の不在を一番強く感じる時期です。祖母がいなくなり、毎年私は、私をキッチンに呼ぶ祖母の大きくて感じの良い声をもう一度聞きたいと心から願うのです。祖母の不在からもう一つ気付かされたのは、祖母にとってお正月は何を意味していたか、ということでした。それは単に、新たな始まり、幸運への願いに留まりませんでした。私たちが作っていたお節料理の多くにそうした意味はありますが、祖母にとって日本のお正月は、伝統を越えたものでした。それは家族をひとつにする手段、距離や義務によって離れ離れになった私たちを橋渡ししてくれるものでした。そして何より、料理と家族のこまやかな温かさを駆使し、忙しさが増すこの世界で、私たちの文化的アイデンティティを守る手段でした。

訳注:

1. ロサンゼルスの魚市場

2. カリフォルニア州パサデナで毎年元日の大学フットボール試合の前に行われるパレート

 

© 2018 Cody Uyeda

このシリーズについて

これまでの「ニッケイ物語」シリーズでは、食、言語、家族や伝統など、日系人特有のさまざまな文化を探求してきました。今回は、ニッケイ文化をより深く、私たちのルーツまで掘り下げました。

ディスカバー・ニッケイでは、2018年5月から9月までストーリーを募集し、全35作品(英語:22、日本語:1、スペイン語:8、ポルトガル語:4)が、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、キューバ、日本、メキシコ、ペルー、米国より寄せられました。このシリーズでは、ニマ会メンバーによる投票と編集委員による選考によってお気に入り作品を選ばせていただきました。その結果、全5作品が選ばれました。

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執筆者について

コーディ・ウエダは、南カリフォルニア在住の日系アメリカ人4世。南カリフォルニア大学で文学士号と法務博士を取得、ハーバード教育学大学院で教育学修士を取得し、現在は教育研究の分野やアジア系アメリカ人の非営利団体で働いている。

(2022年12月 更新)

 

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