祭り、銭湯、歌舞伎、「小さな日本」がそこにはあった
シアトル・ダウンタウン南に位置するインターナショナル・ディストリクト。その一角に残る日本町。戦前の最盛期には8500人程の日系移民がそこに暮らし、ビジネスを営んでいた。シアトル日系移民のはじまり、最盛期の華やかなる時代の姿、そして現在に残る面影を、北米報知社インターン生がたどる。
1880年代にさかのぼる日系移民の歴史
シアトルにはかつて、北米最大規模の日本町があったことを知っているだろうか。1930年には約8500人の日系人が住み、ロサンゼルスに次ぐ規模であったという。インターナショナル・ディストリクト周辺、特にジャクソン・ストリートとメイン・ストリートを中心に日本人経営の商店が集まり、東方面には日本人が多く住む住宅地が広がっていた。
シアトル日系移民の歴史は、1880年代初頭にさかのぼる。シアトルに白人入植者が初上陸した1851年から約30年後だ。19世紀末のシアトルは、周辺地域の林業や炭鉱業の繁栄、そして1870年代の鉄道開通で繁栄していった。1880年、シアトルは人口3500人程の小さな開拓の町だったが、1890年までにはその人口は約4万人に急増する。アラスカ・ゴールドラッシュを経た1910年までには、人口約23万人の都市に成長した。
シアトルで最初に人口を増やしたアジア系移民は中華系移民だ。文献によれば、1876年にはパイオニア・スクエアの一角に250人程の中華系労働者が住む中華街が形成されていたという。しかし、白人系移民による1886年の暴力的な排華運動で、多くの中華系移民は自国やサンフランシスコへ逃れていく。一方で、中華系労働者の急減を補うように増えていったのが、日系移民であった。
シアトルで最大のマイノリティーグループに
1896年に日本郵船のシアトル-横浜間運行が始まると、日系移民の人口は急激に増えた。1907年の日米紳士協定で明治政府がアメリカへの移民を自主規制するようになるまでの約10年間、多くの若い日本人男性が一獲千金を目指して海を渡ってきた。紳士協定後に男性移民は減少するものの、今度は彼らの花嫁として日本人女性がシアトルへ移住してくることになる。いわゆる「写真花嫁」だ。女性移民は1924年の排日移民法まで増え続けた。シアトル市の日本人人口は、1910年には男性約5000人に対して女性約750人と男性比率が高いが、1920年には男性約4000人と女性約2000人になる。こうして、海を渡った日系1世たちはシアトルの地で家庭を築き、子供たちを育て、日本町を形成していった。
日系移民は、その人口規模、祖国の経済成長、内陸へ入った農家の成功や農産物売買業者の成功などを背景に、経済的に多きな繁栄を見せた。もちろん、日本人の勤勉さも重なっただろう。日系移民たちの成功を反映するように、日本町も華やかに栄えていった。1901年には日本国領事館がおかれ、1902年には北米報知社の前身である『北米時事』の発行も始まっている。北米時事に掲載されている広告には、食堂、ホテル、理髪店、青果店、弁護士、医者などの多種多様な業種が見られ、当時の日本町の活気が伝わる。銀行や学校もおかれ、お祭りや盆踊りも盛大に行われていたという。日本町らしく、銭湯も数か所で営まれていた。1909年にオープンした「日本館シアター」では、地元演芸会による歌舞伎から、日本の有名歌手を迎えての公演も行われた。まさに、小さな日本がそこにはあった。
日米関係の悪化と日本町のかげり
1909年には、現ワシントン大学キャンパスで開催されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会で「日本館」が設けられ、渋沢栄一が率いる実業団一行がパレードに参加した記録も残されている。ワシントン州と日本政府の友好な関係も、シアトル日系人コミュニティーの盛況を後押ししたと思われる。
その様相が変わり始めたのは、1929年世界大恐慌の頃からだ。日中戦争の頃から、日米関係の雲行きも怪しくなっていく。祖国へ帰国するものも増え、日本人人口は1940年には約7000人に減少する。そうして1941年、日本軍によるパールハーバー攻撃から数ヶ月後、日本町は数日間のうちに姿を消すことになった。
参考文献
Taylor, Quintard. The forging of a black community: Seattle’s Central District, from 1870 through the Civil Rights Era. (Seattle: University of Washington Press, 1994)
Chin, Doug. Seattle’s International District : The making of a Pan-AsianAmerican community. (Seattle: University of Washington Press, 2002)
Seattle: International Examiner Press
年表に見る日系移民の歴史(戦前編)
1850年代 | 1851 | シアトル入植開始 |
1860年代 | 1860 | 初の中華系移民、チン・ホック氏が中華系移民斡旋会社設立 |
1870年代 | 1873 | ノーザン・パシフィック鉄道がシアトルへ開通 |
1874 | 実業家のヘンリー・イェスラーがシアトル市長に | |
1880年代 | 1881 | 初の日系移民、西井久八氏がシアトル入港 |
1886 | 排華運動によって中国系移民が激減 | |
1890年代 | 1896 | 日本郵船、神戸-横浜-シアトル航路開始 |
1897 | アラスカ・ゴールドラッシュ グレートノーザン鉄道、日本人労働者募集 |
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1899 | 日本人会結成 | |
1900年代 | 1900 | 東洋貿易会社が静岡から日本人移民労働者を斡旋 |
1901 | 日本国領事館がタコマからシアトルへ移転 シアトル本願寺別院が建立される |
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1902 | シアトル国語学校(日本語学校)が開校(全米最古) 日系新聞「北米時事」発足(~42。46~「北米報知」として現存) |
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1904 | 日本食レストラン「まねき」開店(現存) | |
1905 | 日系新聞・旭新聞発足(~18) | |
1906 | ジャクソン駅建設完了 | |
1907 | 日米紳士協定締結 日本館シアターが開館(建物現存) |
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1908 | シヤトル日本人会結成 | |
1909 | アラスカ・ユーコン太平洋博覧会で「日本展」が注目を浴びる 日本館シアター開館 |
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1910年代 | 1910 | パナマホテル開館(地下に橋立湯) 日系新聞・大北日報発足(~42) |
1911 | ユニオン駅建設完了 | |
1912 | 日本人会とシヤトル日本人会が合併、北米日本人会になる 日本、明治から大正へ |
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1920年代 | 1920 | 排日移民法でアジア移民が全面的に禁止される |
1926 | 日本、大正から昭和へ | |
1929 | 世界恐慌 | |
1930年代 | 1932 | ヒゴ・バラエティーストアが現在の場所に移転 |
1935 | ワシントン州国際結婚禁止運動が展開される | |
1937 | 日中戦争開戦。日系移民と中華系移民との間で軋轢が生じる | |
1940年代 | 1941 | 真珠湾攻撃、日米開戦 |
1942 | 日系人強制収容令(特別行政指令9066号)発令 |
*本稿は、シアトルの生活情報誌「ソイソース」(2017年5月26日)からの転載です。
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