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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2017/9/28/fried-chicken-futomaki/

フライドチキンと太巻き

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ドキュメンタリー映画 『Fall Down Seven Times, Get Up Eight: The Japanese War Brides』(訳注:第二次大戦後米兵と結婚し米国に渡った日本人女性とその娘たちを描いたドキュメンタリー映画)の中で、ヒロコ・トルバートさんは、「私は完全にアメリカ人」と言います。それに対し娘のキャサリンさんはこう返します。「自分がどんなにアメリカ人らしいかお母さんが言うなんて妙ね。毎朝味噌汁を作っているじゃない」。ヒロコさんがクスクス笑いながら、「食べ物はまた別の話」と言うと、二人は一緒に笑いました。そう、別の話なんです。

親友のブレンダと私は、成長するにつれてよく食べ物の話をするようになりました。日本人の戦争花嫁の母とアメリカ人の父の娘である私たちは、アメリカ南部で生まれ育ちました。日本には日本独自の食があるように、私たちが南部料理だと思っている食べ物を、南部の人たちはとても誇りに思っています。フライドチキン、バーベキュー、ターニップグリーン(訳注:かぶの葉の煮込み)、コーンブレッドは、そのほんの一部です。

私の母は、横浜のアメリカ赤十字社による“花嫁学校”の卒業生でした。こうした講座は、戦後米兵と結婚した何千もの日本人女性が、夫と共に米国へ渡る準備の一環として、アメリカ流の生活様式を学ぶために設立されました。

横浜のアメリカ赤十字社による花嫁学校を卒業するリンダのお母さん(前列左)

私の母は20年以上前に亡くなりましたが、母が花嫁学校でパイナップル・アップサイドダウン・ケーキとフライドチキンの作り方を教わったという話は覚えています。結婚後、両親は米国に越すまでの数年を日本で過ごしました。母は自分の父親(私の祖父)を家に招待し、初めてアメリカ料理を振る舞った時のことを覚えていました。明治(1868年~1912年)生まれの厳格な親方だった祖父が、母が夕食に作ったフライドチキンを、それまで食べた中で一番おいしい食べ物だと言い切ったのです。母は、父親からの圧倒的な承認を心から誇りに思い、喜びました。

子供だったブレンダと私は、ハパの伝統さながら南部スタイルの典型的なアメリカ料理と和食といったふたつの文化からなる料理を食べて育ちました。ふたりとも卵かけごはんをよく食べていたと記憶しています。熱々のご飯に生卵と醤油、味の素(化学調味料)を混ぜておかゆのようにしたものが卵かけごはんです。ふたりとも卵かけごはんが大好きでしたが、生卵のサルモネラ菌を恐れ、もう何年も食べていません。

ブレンダと私の母は、私たちが大きくなるまで子供と夫のために2品の付け合わせを添えた肉料理というアメリカ流の食事をよく作りました。自分用の日本食を作るのは、その後でした。ご飯と魚、それに漬物が母の普段の夕食でした。いずれの家庭でも、母が家族全員に日本食を作る機会があると、私たちもふたりの父親も、割り下で料理したスキヤキ(薄切り牛、野菜、しらたき)が疑いもなく大好きでした。テーブルの真ん中でスキヤキを料理し、ご飯と一緒に食べるのです。子供だった私たちにとってこの食事の醍醐味は、細く透明なしらたきでした。私たちはしらたきをほとんど全て鍋からすくい上げ、全部平らげて叱られたこともありました。

私の母は、ターニップグリーンやコーンブレッド、揚げオクラといった南部メニューを、マーモー(祖母)や父方のおばといった南部料理のマスターたちから教わりました。ブレンダの家では、お父さんがお母さんにこうした料理を教えたそうです。

7月4日などの祝日には、グリルで焼いたリブステーキに日本風の春巻きやすしを添え、二つの文化を融合させました。

日本食でも南部料理でも、2、3種類の付け合わせを添えた伝統的な肉料理を手ごろな価格で食べられるので、それぞれの食への欲求を抑えることはできます。でも、手作りに優るものはないという点でブレンダと私は一致しています。これが特に当てはまるのが太巻きです。いずれの家庭でも基本形は野菜の太巻きで、酢飯と海苔の巻きずしに魚が入ることはありませんでした。手作りの太巻きに一番よく使われたのが、日本風の甘い卵焼き、茹でほうれん草、きゅうり、にんじんの甘煮、紅ショウガ、カンピョウでした。私たちが子供の頃から言っていた、“すしに入っている茶色いの”と言う以外に、私はカンピョウの説明方法を知りません。

友人たちと一緒に、太巻きや持ち寄りの料理を食べるリンダのお母さん(左)

私の母は、太巻きの達人でした。日本人の友人との特別な昼食会や夕食会、正月祝いの集まりには必ず太巻きを作りました。握りずしも作りましたが、それもほとんどがほうれん草などの野菜か卵でした。本当に特別な機会にのみ、小さく握ったご飯の上に火を通した海老が乗りました。それでも母のよそ行き料理と言えば太巻きでした。

小さいころ、家族でビーグル犬を飼っていました。ある年母は、食卓を太巻きと握りずしで美しく埋め尽くし、友人たちとの忘年会に備えました。母と私は家の中の別の場所にいましたが、キッチンに戻った時、ダイニングテーブルの上でビーグル犬が握りずしに乗せたエビを全部食べてしまっていました。母は激怒しました!犬はなんとか生き延びました…が、ギリギリのところでした。

ブレンダの84歳になるお母さんは、今も現役の太巻き達人です。数年前、ブレンダのお父さんは入院していました。ブレンダと私は仕事帰りにお父さんの様子を見に病院に寄り、その後すぐブレンダのお母さんが到着しました。しばらくしてブレンダのお母さんは、ハンドバッグの中にごちそうを入れていたことを思い出しました。太巻きです!ラップとアルミホイルに出来たての太巻きが包まれていました。ご飯の炊き具合も味付けも完璧でした。すてきなサプライズを4人で分けて食べました。最高においしかったです。

ブレンダも私も、母親と一緒に日本へ行く機会がありました。子供だった70年代、そして大人になってからの80年代と90年代です。

1970年、大阪の祖母と過ごしたブレンダは、当時の大阪にはアメリカの食べ物はなかったと言います。カッパマキというきゅうりのすしをよく食べていたそうです。11歳のブレンダには、すべてが外国のようで、奇妙に見えていました。家族で野球の試合を見に行くことになった時は興奮したそうです。野球場ならではのホットドッグなどの食べ物を期待したからです。でも、結局ブレンダが食べられたのは、タコ焼きかタコの串焼きでした。

1970年の大阪万博へ家族と行った時は、日本初のケンタッキー・フライド・チキンが万博に出店していることを知り、大喜びしたそうです。ブレンダはフライドチキンを貪るように食べましたが、日本の家族はそれほど感心した様子もなく、自分と同じようにガツガツ食べなかったことが信じられなかったそうです。

1974年、13歳だった私は、大阪のおじの家の周辺を歩きながら、自動販売機で “カップヌードル”というラーメンが売られているのを見つけました。そういうものを見たこともなかった私は、興奮して販売機にお金を入れ、家に一つ持ち帰りました。そして日本にいる間、その自動販売機に毎日通いました。

私は最高の料理上手ではありませんが、母のレシピでパイナップル・アップサイドダウン・ケーキを一から作ることができますし、家族の集まりや教会の持ち寄り会にベイクドビーンズやサツマイモのキャセロールを作っていくことはできます。南部のおばたちがレシピを教えてくれたお陰です。日本食に関して言えば、カレーはハウスバーモントカレーの固形ルウを使って作ることができます。私が好きで作るのは、シンプルなさやいんげんの胡麻和えです。これは母がよく作ってくれていた料理で、ブレンダのお母さんが私に作り方を教えてくれました。

私とブレンダの間で、料理上手はブレンダです。彼女の作るチキンとドレッシング(南部ではスタッフィングをドレッシングと呼ぶのです)や、メレンゲを美しく高く盛り付けたチョコレートパイは絶品です。ブレンダはそのレシピを南部の義母から受け継ぎました。極上のソーセージグレービーもお手のものです。私の父が亡くなる前にホスピスケアを受けていた頃、ブレンダは日曜に何度もお見舞いに来てくれました。その時持って来てくれたソーセージグレービーとビスケットは、父を励まし南部人としての父の魂を癒してくれました。

ブレンダに餃子の作り方を教えたのは、彼女のお母さんでした。次にブレンダは、フライパンで餃子を蒸し焼きにしながら、自分の夫と私に餃子の詰め方を伝授しました。少し恥ずかしいのですが、ブレンダの家で開いた“餃子ナイト”で、私たちは三人だけで80個の餃子を作って食べたことがあるのです!

大人になってからは、母も私も東京中のデパ地下を見て回るのが大好きになりました。あらゆる種類の美しいお弁当から豪華な果物、ペイストリーまで、食べたいと思うようなものはほとんどデパ地下に揃っています。大人になったブレンダは、大阪でオコノミヤキという塩味の日本風パンケーキのファンになりました。好きな日本食はお好み焼きだとブレンダは言います。ブレンダのお母さんが、自分がまだ料理ができるうちに何を作ってほしいかブレンダに聞くと、答えはもちろんお好み焼きでした。

自明のことながら、食は文化を定義づける要素の一つです。自分たちを南部人のハーフ、そして日本人のハーフと考えているブレンダと私は、リブステーキでもラーメンでも、フライドチキンでも太巻きでも、いつでも“レッツ・イート(食べましょう)”、または “いただきます!”と言う用意はできています。

 

© 2017 Linda Cooper

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星 72 個
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執筆者について

コミュニケーション・コンサルタント兼フリーランス・ライター。広報、米国上院議員担当報道官、ジャーナリストとして30年以上の経験を持つ。ミシシッピ女子大学でジャーナリズムと政治学を専攻し、文学士を取得。テネシー在住。親友のブレンダは医療研究機関に勤める公認看護師で、家族の近くで暮らしている。


(2017年9月 更新)

 

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