母はいつも「全部食べるんだよ、捨てるのはもったいないから」と言っていました。他界してからすでに2年が経ちますが、今でもとても恋しく思うことがあります。「味の素が無くなったら、醤油と砂糖で味付けなさい」とも言っていました。そのようなアドバイスは今も鮮明に覚えています。また、「不機嫌で調理すると、料理もまずくなるよ」と口うるさく言っていましたが、確かにその通りです。料理は、怒らず愛情を込めてつくるものです。
母も、祖母(沖縄県の人は「オバー」と呼ぶ)も、あまり感情を表に出すことはありませんでした。二人とも夫をかなり早くに亡くしたので、小さい子供を抱えて大変苦労した時期がありました。祖母は戦争中の1944年に、母はペルー経済危機の1985年に、それぞれ夫を亡くしました。そのため二人は多くの苦労を強いられましたが、私たちに弱音を吐くこともなく育ててくれました。そうぜざるを得なかったのでしょう。母と祖母は、抱きしめる代わりに「いい子、いい子」(お利口にしてた時の褒め言葉)と言うことで私たちに愛情を表現していました。少し生活に余裕があるときには、自分たちのものは何も買わず、私たちに玩具や洋服を買ってくれ、常に私たちのことを気遣ってくれていました。母と祖母の愛情表現はいつも穏やかで、私たちの幸せを一番に考えていたのです。
母はほぼ毎日朝早くに起き、灯油キッチンに火を付け、他の家事もしながら、2時間ぐらいかけて豆乳を濾して作ってくれました。朝、母が作ったその豆乳を私たちはかなりの時間をかけて飲み、その間、母は静かに待ってくれたのです。当時、私は4歳ぐらいだったと思います。ガスや牛乳、多くの必需品が不足している時代でした。母はいつも何かと工夫していたのです。
朝食が終わると、母はまたキッチンのコンロに燃料を注ぎ、昼食の準備を始めました。母が和食を作ることはほとんどなく、祖母が言っていたように、安くて簡単な「地元のペルー料理(クリオーリョ料理)」が多かったです。お寿司やかまぼこ、揚げ豆腐や豚の三枚肉、和菓子などは、お盆とお正月の時だけで、母と叔母たちが自慢げにつくっていました。こうした特別な機会以外の和食は、沖縄野菜をふんだんに使ったジューシーメー(炊き込み御飯)や味噌汁、サツマイモのてんぷら、そして胃の調子があまり良くないときのお粥でした。
私にとってあまり好みではない母の料理に、黒いスープがありました。「全部飲みなさい、カルシウムがいっぱい入っているから」と、よく言われましたが、実はそれはイカ墨のスープだったのです。家では「クリ」と呼んでいましたが、私にとっては食欲をそそられないただの「黒スープ」でした。海の幸の風味が漂うスープでしたが、あの黒い色は私の食欲をそそることはありませんでした。でも、母は私に「いい子だ、いい子だ」と褒めながらいやがる私にそのスープを進め、スプーンのペースを早めようとしていました。完食すれば、お菓子を買ってくれるという約束でした。
昼食を終えると、母は着替えて仕事に向かいました。家族経営の店でしたが、夜まで働きその間は祖母が私たちの面倒をみてくれました。私は、母を待っている間寝てしまうこともありました。母はいつも疲れて帰宅していましたが、それでも次の日はいつも通り朝早く起きて朝食をつくってくれました。当然母が私たちを抱きしめたり、一緒に遊んでくれたりすることはありませんでした。母は自分のための時間すらなかったのです。大人になった私は、ようやく今になって母の大変さと母の多大な努力が分かるようになりました。母があまり家にいないことでいつも文句ばかり言っていましたが、今は恥ずかしく思います。
母に対する思い出のなかで、家の食糧貯蔵庫での出来事があります。母は再利用した容器に、ペルー料理に必要な様々な調味料を保管していました。ソースや爪楊枝、そしてアチョーチという香辛料もありましたが、中央市場で買っていたかつお節の袋もありました。
カツオのほんだしやワカメ、昆布が入った箱もありました。母はこうした調味料や食材を、とても大切に保管しており、お盆やお正月、法事のときに使っていました。ただ、あまりにも大事にするあまり、また使用する機会が少なかったこともあり、賞味期限が過ぎてしまうことがあり、母は「もったいない」と言っていました。いずれにしても、こうした食材は日本からの小包が届くのを待つか、誰かがお土産として持ってくるときしか手に入りませんでした。ほんだしや昆布、海苔はとても貴重でしたが、胃腸薬の正露丸やお線香もとても重宝されていました。当時は、日本産のモノは日本からの小包か、親族が里帰りをしてお土産として持ってくるときでしか入手できなかったのです。ペルーには、日本からの輸入はほぼ皆無で、購入するにしても高額だったからです。
しかし今は状況が変わり、私が住んでいるところでも多くの日系人が住んでおり、日本食の店もあります。様々な種類の和食の店があり、市場でも和食用の食材が購入できます。また、最近はこの近辺でもラーメン店が増えており、市場や店でほんだしやワカメも簡単に買えます。その上、調理するのが面倒であれば、デリバリーサービスでお弁当の配達をしてもらうこともできます。今はなんでも手に入り、母の時代のように特別なときでないと日本食が食べれないということはないのです。
もし今母がここにいれば、近くの和食レストランに連れてってあげたいと思います。そして、存分に甘やかしてあげたいです。街の市場で和食用の食材を購入して、熱い味噌汁や美味しいジューシーメー(炊き込み御飯)をつくることもできます。
また、母の満足げな姿を見ながら昔母が私に接していたように「大好きだよ」を心の中で言ってあげたいです。
これは母のほんの一部の思い出ですが、もうすぐ(8月)命日なのです。
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このエッセイは、シリーズ「いただきます2!新・ニッケイ食文化を味わう」の編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが編集委員のコメントです。
エンリケ・ヒガさんからのコメント
料理というものは、ときにはタイムマシーンのように幼少期に戻ることができ、母親がつくってくれていたものが世界で一番美味しいと改めて実感させてくれる。その料理は単なる食欲を満たしてくれていただけではなく、丹精込めてつくられた料理にはまぎれもない母親の愛情が含まれていた。
ミラグロス・ツカヤマさんのエッセーは、自分自身の母親に対する敬愛の表現でもあり、誰もが少なからず同じように感じたことがあるに違いない。彼女のストーリーは、我々も共有できるものである。無口な母親が献身的に無条件に娘のために尽くしている姿は、我々の多くの母親の行動を反映していると言える。
食卓についても同様である。特に、家庭での日本食には大きな特徴がある。ミラグロスさんが指摘しているように、今のリマでは希望すれば和食またはニッケイ料理に必要な食材はなんでも手に入るし、食べることができる。しかし、幼いころは、年に二、三回、特別な時しか食べることができなかった。お寿司、かまぼこ、お餅などはオバー(祖母)や叔母さんたち、そして母親が、お祝いの時に用意してくれる、とても待ち遠しいものだったのである。
© 2017 Milagros Tsukayama Shinzato
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