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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2017/3/15/futbolistas-nikkei/

日系のサッカー選手:ボールに魅了された物語 - パート1

チーム「アエル AELU」には多数の日系人が席を置き、その中にゴールキーパーのアルベルト赤塚、ティト高山、ガブリエル金城(カナシロ)、ロベルト山本、クリスティアン金城(カナシロ)、そしてウィリー上原らが在籍していた。写真:アルベルト赤塚の個人所蔵

南米でサッカーに対する情熱は一言では現せないが、ほぼ一世紀前にペルーにやってきた日本人の子孫である日系人にも当然魅了したことは言うまでもない。当時、この国ではまだサッカーはそんなに盛んではなかったが、1950年代から今日に至るまで多数の日系人がプロ選手になり、ペルー代表チームのメンバーになったものもいることはあまり知られていない。

多くの日系選手は、記録が紛失したり、たくさんのペルー人選手のリストに埋もれてしまった。下部組織やジュニアチームに所属し、中には2部や地域リーグで活躍したものもいる。しかし、比較的多くの日系選手がリマ、ウアラル、チクラヨ、またはタララという名門サッカーチームのアイドル的存在になったのも事実である。

中には、母方もしくは祖母方が日系人の選手もいるが、その場合は日本人の名字を持たないため日系人の間でもあまり具体的なことが知られていない。その中には、1950年代にウアラル出身のルイス・ラローサ兄弟の存在がある。母親が、アントニア・ラローサ松田である。当時、多くの日系人は農業に従事しており、この8人兄弟も農業の仕事を覚えながらも、その後それまであまり見たことがないほどサッカー界で活躍するのである。

ルイス・ラローサ兄弟

このラローサ兄弟は、ダニエル、ハイメ、ウエセビオ、マヌエル、ペドロ、エンリケ、ビクトルマヌエル、クラウディオの8人である。兄弟みんながサッカー界に入ったが、成功したのはそのほんの一部である。ダニエルは、フォワードとしてウニベルシタリオ・デ・デポルテスという強豪チームで3年連続の得点王に輝いた。通称「エル・チーノ」と親しみを込めて呼ばれ、プロの一部リーグで105点を記録し、マリスカル・スクレ、ファン・アウリッチというクラブチームと、ペルー代表チームで活躍した。

ペドロ ルイス・ラロサとその7人兄弟、母親はアントニア・ラローサ松田で、子供達はみんなサッカーに従事したが、その功績は様々である。© ウニオン・ウアラルクラブ

ハイメの功績も大きく、1960年のローマ五輪にペルー代表として参加し、チクラヨ市のアウリッチ・チームでプレーした。このチームで兄のダニエルと1959年の全国トーナメンントで優勝し、次の年には弟のマヌエルと同じ功績を残した。

兄弟の中で最も印象に残っているのがペドロ(通称ペドリート)である。彼は名門のオスカル・ベルケメイエルで選手としてのキャリアを始め、1973年にはデフェンソル・リマを優勝に導き、そして1976年には彼を歴史上最も讃えてくれたウニオン・ウアラルでも優勝した1

また、1975年にはコパアメリカ(南米選手権)でも優勝し、その際大統領から最優秀選手として表彰されている。そして、1983年にもスポーティング・クリスタルに移籍する前にも選手として栄冠を手にしている。引退後、2002年には第2部リーグにいたウニオン・ウアラルのテクニカルコーチに任命され、たった一年で1部リーグにチームを昇格させた。現在ペドリートは70歳で、生まれ育ったウアラルに住んでおり、昨年は自分が最も愛したチームのコーチに就任している。

60年代の日系サッカー選手たち

1950年代と60年代も、他の日系サッカー選手もペルーで活躍した時期である。タララ出身のトマスとマリオ岩崎兄弟が有名で、この二人はウニベルシタリオ・デ・デポルテスとアトレティコ・グラウでプレーした。トマスは、ルイス・ラローサ兄弟の一人と一緒に優勝しており、1959年にはブエノスアイレスで開催されたコパ・アメリカにも出場し、当時無敵だったブラジルのペレー選手とも対戦した。そして、1960年のローマ五輪ではペルー代表チームの選手として、インドとの試合で得点をし、4対1で勝ったのである。

アントニオ・バジェホス林田は、FCファン・アウリッチのアイドル的選手だった。写真には、友人のエクトル・チュンピタスと一緒で、彼はのちにアエル AELUチームの監督として就任する。写真:アントニオ・バジェホス林田の個人所蔵

同じ時期に注目を集めたのが、カジャオのエスポール・ボーイズと、アリアンサ・リマの得点王になったカニェテ出身のファン中畑アイジョン選手である。1962年には、アリアンサ・リマを優勝に導いている。もう一人は、アントニオ バジェホス林田選手で、はじめはデフェンソル・アリカでプレーしていたが、その後FCファン・アウリッチのディフェンダーとして活躍した。当時サッカー選手の給料があまり良くなかったこともあって、「いつも市場で買い物すると、店員からなんらかプレゼントがあった」、と微笑ましくそのエピソートを語ってくれた。

70年代には日本で仕事するチャンスが現れ、アントニアはなんの疑いもなくそれを選択した。作曲家として、FCファン・アウリッチのために応援歌を製作し、10年前に日本からペルーに戻った。最近は、定期的に敵味方を問わず当時のサッカー仲間30人ぐらいと会うことが多く、「ポチョ(アントニオのあだ名)」バジェホスは以前ライバルであったエクトル・チュンピタスやフリオ・メレンデス、そしてラモン・ミフリンと、大の親友関係にあるという。

スター選手だったコキ平野

一時期日系サッカー選手の姿が見られなくなるが、70年代の終わりになると新たなスターが誕生する。それは、名門FCウニオン・ウアラルのホルヘ”コキ”・平野マツモトである。ウアラル出身だったが、本当に注目を浴びたのは1986年からボリビアの首都ラパスのクルブ・ボリバルというチームでプレーしてからである。このチームで全国大会を2回も制覇し、8年間で139点のゴールを記録し、何回も大会の得点王になり、海外で最も得点をしたペルー人選手である2

ペルーの代表チームでも11点をマークし、コパアメリカにも三回出場している(1987年、89年、そして91年)。弟のミゲルもボリビアの同じチームに所属し、ボリビアサッカー界に大きく貢献し、黄金時代を築いたといえる。体格的にはかなり痩せ細かったコキだが、ペルー人として日本のプロサッカー界に最も早い段階に入団をチャレンジしている。1980年にフジタ工業に入り、現在千葉県に居住している。コキ平野選手の鋭いパスは、1994年までエスポール・ボーイズでプレーしていたのでペルーでも見ることはできたが、その前はFCデポルティボ・シペサで活躍していた。

もう一人の日系選手は、ファンホセ・佐藤タラソナで、地元のデポルティボ・ムニシパルでデビューし、2年後にはペルーのユース代表メンバーになっている。そして数年後、日系社会は第1部と2部リーグのチームを抱えた自前のクラブを持つようになり、それがアエル (AELU - Asociación Estadio La Unión ラウニオン総合スタジアム)である。

AELU-アエルの時代

アエル・スタジアムは1982年に創設され、地元プエブロリブレのリーグを勝ち抜いて2部に昇格したことで、1987年には日系団体のサッカーチームとしてはじめて1部リーグで認められた3。このチームは、多数の日系人選手で構成されていた。グリーンのユニフォームで主将を務めたのがロベル・山本津田で、ゴールキーバーはサポーターからとても人気のあったアルベルト赤塚松田(リマ出身、1966年生まれ)だった。彼はプロチームでの経験があり、デポルティボ・ムニシパルやユース代表メンバーでもあった。

アルベルト赤塚は、デポルティボ・ムニシパルとアエルのゴールキーパーとして活躍し、その前にはペルーのジュニア代表チームでもプレーした。© アルベルト赤塚のの個人所蔵

アルベルト赤塚は、現在日本に住んでおり、「アエルのチームにいながら、以前所属していたムニシパルと対戦したときはこのチームのサポータが俺を応援していたことを覚えている」と述べている。そして、このアエル・チームで忘れてはならないのが名ディフェンダーの(柔道のペルー・チャンピオンでもあった)ロベルト山本である。ロベルトは、幼少時代にアルド林田、ハビエル具志堅、そしてジョエ大城(オオシロ)が所属していた児童サッカークラブ「二世ブレーニャ」でデビューし、1983年にはペルー代表の予備チームメンバーになった。その後、ウニオン・ウアラルやデフェンソル・リマでもプレーした。

そして2部のアエルチームには、エクトル・チュンピタスの下で、マヌエル宮城(ミヤグスク)、ダニー福崎、ファンホセ佐藤、アレックス丸山、ガブリエル金城(カナシロ)、ファン中屋、ペドロ渡嘉敷らが所属していた。そして、90年代になってからは名門チーム「ウニベルシタリオ・デ・デポルテ」でプレーしたクリスティアン金城(カナシロ)をはじめ、エクトル高山、ウィリアムとエドウィン「チョリト」上原金久(カネク)兄弟、その従兄弟のウィリアム上原ギブも名を連ねた。

上原兄弟のエドウィンは、ウニべシタリオ・デ・デポルテスと日本の浦和レッドダイヤモンズ(1992年から95年)とサガン鳥栖(1996年)でプレーした。アエルのチームは1部リーグではあまり良い成績を残すことができず、1992年には2部に転落した。しかし、この時代はペルーサッカーそのものがあまり注目されなかったときであり、日系団体のチームはかなり奮闘したといえる。数年後には新しい顔ぶれが現れ、活躍の場を求めたのである。

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注釈:

1. 大ペドリート・ルイス (スペイン語のみ huaral.pe、2010年11月14日)
2. ホルヘ・平野:アルティプラノで神風 (スペイン語のみ、 De Chalaca、2008年10月10日)
3. グリーンデビュー (スペイン語のみ、De Chalaca、2013年5月29日)

 

© 2017 Javier García Wong-Kit

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執筆者について

ハビエル・ガルシア・ウォング=キットは、ジャーナリスト兼大学教授で、雑誌『Otros Tiempos』のディレクターを務めている。著書として『Tentaciones narrativas』(Redactum, 2014年)と『De mis cuarenta』(ebook, 2021年)があり、ペルー日系人協会の機関誌『KAIKAN』にも寄稿している。

(2022年4月 更新)

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