日系アメリカ人の中で、「帰米」(きべい)と呼ばれる人たちがいる。出生地はアメリカなのだが、幼少期に日本で教育を受けて、ふたたびアメリカにもどってきた人たちのことだ。日本に一度戻ってからまたアメリカ(米国)に帰ってくるから帰米というのだろう。帰米が人間そのものを指す場合のほか、形容詞的に帰米二世というように使われる場合もある。
日本から移住した一世の男たちは、たいてい日本人の女性と結婚しやがて子供をもうける。多くの一世は、アメリカでの仕事を「出稼ぎ」的な感覚でとらえているので、成功して、ある程度財を成したら日本に帰国することを考えていた。日本人であることの意識は強く、誇りを持っていた。
だから、子供たちにはできれば日本語を身につけさせ、日本人としての精神を修養するため日本で教育を受けさせたいと思う一世は多かった。加えて、アメリカでの仕事が大変で、子供の面倒を十分見ることができないため、日本の実家などに一時的に養育を頼むこともあった。全体としては少数派だが、こうしてアメリカ生まれのアメリカ市民でありながら、親の都合で帰米となったものたちがいる。
太平洋戦争が勃発したのち、日系アメリカ人それぞれが、二つの国家や文化の間で複雑な思いをするが、とりわけアメリカ市民でありかつ日本人のメンタリティーももつ彼らの思いは複雑だった。
広島のある家族にとっての日米
こうした帰米2世のある人生を、戦争を挟んで描いたノンフィクションが『ジャパン・ボーイ 日系アメリカ人たちの太平洋戦争』(1983年、角川書店)だ。著者の大谷勲氏は1939年生まれ。1979年に「日系アメリカ人」で第6回日本ノンフィクション賞を受賞している。この作品はのちに『他人の国、自分の国−日系アメリカ人オザキ家三代の記録』(角川書店)と名を変え出版されている。
ジャパン・ボーイとは、帰米2世の若者のことを指す言葉だという。本書に登場する主要人物のひとり、東久保輝男は広島県からアメリカに出稼ぎ的にわたってきた父愛次郎とイチヨの次男として、1918年カリフォルニア州のフローリンで生まれる。
3年後、家族と一緒に、日本に行き父の郷里の広島で育ち、日本の学校教育を受ける。尋常高等小学校を卒業したころ、アメリカから帰ってきた近所の人の息子から、アメリカに行かないかと誘われアメリカ行きを決める。この背景には、日本の経済事情の厳しさと、日本で徴兵され戦地に行くことを恐れたためもあった。いずれにしても将来日本に帰ってくるつもりでの渡米だった。
親元を離れ、カリフォルニアの日本人農園に預けられ、英語を学ぶために地元の小学校に通った輝男は、その村の白人から「ジャパン・ボーイ」と呼ばれた。純粋な2世ではなく、日本から戻ってきた者だけを指しての言い方だった。
時代は、戦争へと向かいつつあるなか。輝男をはじめ彼の兄弟、姉妹や同じジャパン・ボーイたちなどが、思いもよならない時代の流れのなかを生きることになる。多くの資料やインタビューや取材をもとに、日系人と戦争の関わりが描かれる。
特に、輝男が所属した陸軍情報部による日本人捕虜への対応など、その活動の実態や、戦時中の日系人の収容所のなかで反米活動がどのように行われたかについて詳しい。
勝っても負けてもキズを負う
東久保輝男には兄がひとり、弟が二人、妹が三人いた。輝男は徴兵されアメリカの陸軍情報部日本語学校に入り、開戦後は日本軍の情報を収集する任務につく。兄も帰米だが、収容所に入ってから反米青年組織に参加する。上の弟は病死し、日本で育った下の弟は日本の軍人として神風特別攻撃隊に入る。年長の妹は戦時中は中国で過ごしたのち、広島に戻り、原爆の悲惨な光景を目の当たりにし、自身も被曝する。
戦後、輝男はいったん除隊するが、しばらくして軍人としてふたたび日本に駐留することになる。理由のひとつは広島にいる両親らに会うことだった。母は腰を抜かすほど喜んだが、妹たちの反応は複雑だった。
原爆の惨状を知る広島にいて、原爆を落としたアメリカの軍服を着た兄の姿を見て、うれしいと同時にひとりは「なにか後ろめたい気がしました」と言い、もうひとりは「大変なショックでした」と言う。まだ戦争のキズが癒されないころで、かつての日本の友との同窓会には、アメリカ軍人の輝男は招かれなかった。
本書が書かれた当時、まだ多くの二世から生々しい証言を得ることができたことがわかる。今ではもうほとんど接することができない人たちの残した言葉の価値の大きさをいま思い知るようだ。
© 2017 Ryusuke Kawai