大統領名の表記すら異なる現実
日本のマスコミが使っている個人名表記と、ブラジルの邦字紙で使っている表記にも、自然に違いが生まれる。
たとえば、この2016年8月末に罷免されたジウマ前大統領のことは、日本では「ルセフ大統領」という。
我々としてはブラジルのマスコミが普通に「presidente Dilma(ジウマ大統領)」というから、そのまま日本語にした方が現地の感覚に近い。
だが、日本では苗字表記で統一されている。あたりまえだが「晋三首相」とはいわない。
だがブラジル在住者にとっては、「ルセフ大統領」ではどこかオカシイ感じがする。
不思議なことに、ブラジルの大統領は、苗字と名前の表記が、人によって使い分けられる。
- 「コーロル大統領(フェルナンド・コーロル)」は苗字で表記。日本ではなぜか「フェルナンド・コロール」と延ばすところが違う。
- カルドーゾ大統領(フェルナンド・エンリッキ・カルドーゾ)も苗字で表記。日本でも「カルドーゾ大統領」と一緒の表記。
- ルーラ大統領(ルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバ)は苗字で表記。日本では「ルラ大統領」表記が多い。
当地で生活している人間は、ブラジルのテレビを見ていてその表現の影響を直接的に受けている。身近なところに入る二世、三世がしゃべっている日本語は、ブラジルのマスコミの表現をそのまま使っているから、それから「ブラジル式表記」の影響を受ける部分が大きい。
そのほか、サッカーの「ジッコ」も、日本では「ジーコ」だ。
このように、ブラジル日系社会の日本語は、固有名詞だけみても、もう日本のそれとは違ってきている。日本語表現だけれどもブラジルの感覚、センスの日本語表現、「ブラジルの日本語」になってきている。
大陸の日本語表現
コロニア語は、日本語表現だけれども、どこかブラジルの感覚やセンスがしみ込んだ〝大陸の日本語〟になっている。
それがニッケイ新聞のサイトはもちろん、ヤフーニュース、グノシーなどニッケイ新聞が記事提供する媒体を通じて、日本の読者に晒され「伯国とはどこのことか。これは大正時代の新聞か?」「聖州とはなんだ」「15レのレってなんだ」(通貨単位レアルの略)という反応が続々と書き込まれている。
この傾向は、ブラジルへの注目が高まったリオ五輪の最中、とくに顕著だった。ヤフーニュースに出したニッケイ新聞の記事で36万ビュー越えしたものが2本あった。2万ビュー越えでも10本以上あった。印刷版が1万部しかでていない邦字紙の記事が、ネット上では36万人の日本人の目に触れている。かつてない異常事態だ。
大半のヤフー読者は、我々の記事も日本語だから日本の媒体と誤解して読み始め、所どころ出てくるコロニア表現に面食らっているようだ。
我々としても、読んでもらいたいのは記事の内容であって、そんな表現レベルで違和感を持たれて読まれないのでは困る。しかたなく、今年から徐々に「ネットに上げるテキスト」は日本式の表記にする対応をしてきている。
「海外」はどこのこと?
逆に、私はブラジルに来た当初、現地の新聞で日本に関する記事に「アルキペラゴarquipélago(諸島)」という表現を見て、ハッとした。私は静岡県出身だが、一般に本州出身者には「島に住んでいる」自覚はない。おそらく北海道、四国、九州もそうではないか。
日本人の大半は、口では「島国根性」とか自嘲的表現を使う。だが、実際に「島に住んでいる」とリアルに自覚している人は少ないという現実に気付かされた。
日本の日本語との何げないズレという意味で、一番困った言葉は、何といっても「海外」に尽きる。この言葉が持つどうしようもない島国感覚には、いつも頭を悩ませている。
たとえばブラジル国内面の翻訳記事に、「ブラジル人に高まる海外旅行熱」という原稿があって、よく見ると旅行先にアルゼンチンやチリが入っている。文字通りに考えれば、欧州は大西洋を越えているので「海外」だが、アルゼンチンやチリはもちろん、北米も地続きだ。
つまり、「海外」という言葉には、「海の向こうは外国」という島国感覚がまつわりついている。陸続きに隣国がある大陸にはそぐわない表現だ。
いったん、そんな違和感に気付くと、けっこう日本の日本人が書いた文章すべてが気になってくる。
たとえば、日本の銀行や証券会社の世界の金融情勢レボートや、全国紙の特派員の記事でも「海外からの影響を受けるドイツ」的な表現があり、邦字紙記者的にはかなり違和感を受ける。
ニッケイ新聞では極力「国外」とか「外国」に言い換える。本紙で「海外」という言葉を使う時は、「日本から見て海外」という意味だ。「海の外=外国」という感覚は、日本語の中に染み付いている。日本以外で日本語が生活言語として使われていないことが、その主たる原因ではないか。
こんな「大陸の日本語」感覚が、いつか本国にフィードバックされれば、より「グローバルな日本語」に一歩踏み出すのでは―などと勝手な夢想をするのは、井の中の蛙たる邦字紙記者の負け惜しみかもしれない。
© 2017 Masayuki Fukasawa