ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2017/07/05/

イタダキマスの余裕はなかった!

1950年代初頭のミッドウェイ(注:カナダ、ブリティッシュコロンビア州南部の村)のニッケイの子供たち  写真提供:ルー(タカハシ)ヤノ氏

 「イタダキマス」って何? 私が子供時代を過ごした戦後のカナダでは聞いたことがありません。グリーンウッド(ブリティッシュコロンビア州中南部の街)には日本語学校はありませんでした。唯一似ているのは、食卓の一番良い席に着こうとする兄や姉に押された時に言った、「イタイ!」とか「イタイナ!」でした。当時の私たちは皆、「カナダ化」、それもアングロサクソン系のカナダ人文化への同化を何より望んでいました。聖心学院で私たち生徒が習った歌といえば、『アイルランドの瞳が微笑むとき』や、『ローモンド湖(注:スコットランド民謡)』でした。学校のイベントで修道女に支給されたピーナッツバターとジャムのサンドイッチとココアは、日本食に比べれば味気ないものでしたが、ごちそうでした。労働者の日のお祭りで無料のホットドッグが振る舞われたこともありました。そこで7つもホットドッグを食べたと自慢するニッケイの男の子もいました!その子の家に遊びに行った時に見た、ご飯をかき込む姿は忘れられません。大量のご飯の上にボローニャソーセージをほぐしたもの少々とキャベツをかけただけの食事でした。驚きました!それ以来、私は食事について不平を言わなくなりました。

自宅では、きまり悪い思いをすることなく、安心して何でも食べられました。私たち一家は満足に食べることができ、幸運でした。大鍋からカレーの匂いがしてくると、私は興奮して“イタダキマス”とは言わずに、「やった!大好きな“カレーゴハン”だ!」と言いました。総勢9人の大家族で育った私にとって、エチケットは必須ではありませんでした。実際食卓には決まった席はありませんでした。席に着くのが遅ければ、おかわり競争には負けます。タサカ家の子供たちは、お昼ご飯のために学校から走って帰りました。大混乱が起きることもありました!席を巡ってきょうだい喧嘩が始まり、おかずを狙う箸が乱暴にうねり、おかわりをしなくてもいいようにご飯を2杯分よそう者もいました。ご飯にカレーをかけたら、自動車の都さながら、素早く食べるのです!漬物は手づかみ!岩のりは両手のひらで砕く。でも、この日はカレーごはんです。大鍋には十分な量のおかわりがあります。

魚やハンバーグの日は、箸はやりと化し、子供たちは食べ物を突き刺します。兄や姉はとても用心深くなります。「あ、キツツキがいる!」と誰かが言うと、私は振り返って窓の外を見ますが、座り直した時にはお肉が一つなくなっているのです!無秩序状態です!泣いたり笑ったり、大忙しでした。両親は、一体どうやってこの状況に毎日耐えられたのでしょうか?

サシミ、カズノコ、イクラ、アワビが食卓に上ることもありましたが、生ものが嫌いな子供もいました。姉(妹)は文句も言わずにパン入れへ行き、自分でサンドイッチを作っていました。私も子供の頃はサシミが苦手でした。両親や魚好きの兄たちは、そうした珍味を味わって食べていました。私がサシミを食べる時は、まずは醤油とおろししょうがで魚の味を消し、大量の熱々のご飯と一緒に小さいサシミを一切れ口に入れるのです!これが私の生ものデビューでした。

ニッケイ人が漁村のスティーブストンで毎日どのように魚を食べていたのか、私には想像できませんでした。私の両親の出身は、壮大なフレーザー川のほとりの村でした。和歌山県三尾村出身の一世が、魚のさまざまな調理方法を考案したことを、私は後になって知りました。その中で私が気に入っているのはサトウヅケです。あまり上質ではないサケを数日間塩水に浸し、ブラウンシュガーに漬け込むのです。サトウヅケを焼けば、“オカイサン”またはオカユにぴったりのおかずになります。サケの脂身は、タレと呼ばれる珍味になります。サケは、焼いたり揚げたり、網焼きや燻製、塩鮭にしたり、砂糖醤油で調理したり、水炊きに入れることもできます。カマボコもサケの加工品です。付け合わせの漬物は、きゅうり(ビール漬け)、ほうれん草、キャベツ、ダイコンで作ります。

私たちの食事は、ボローニャソーセージかプレムやスパムのスライスを焼いたもの、または季節になるとサヤエンドウとベーコン炒めが主な献立でした。春と夏は、川でとれるマスのお陰で新鮮な魚にありつけました。私たちの好物はニジマスでした。秋は狩りの季節で、アオライチョウや鹿肉のローストを作りました。鹿の肉には臭みがあったので、両親がシチューにしてくれました。副菜は、豆腐やあらゆる種類の漬物でした。食卓に常備されていたのは味の素と醤油で、ケチャップが置かれていることもありました。

1950年代前半の屋外トイレは、キッチンと裏口の階段付近に建てられていました。なぜでしょう? 大抵の子供が、暗闇を長い距離歩くことを怖れたからです。冬は寒さが厳し過ぎるので、雪の中を歩くことはできません。ましてや凍った便座に座るなんてとんでもありません!夏はもっとひどいものでした!ハエが来るのです!父が窓やドアに網戸をつけてくれましたが、誰かがドアを開けた隙にハエは入ってきます。箸でハエを捕まえる座頭市の気持ちが分かりました。丸めた新聞は重宝されました。ハエを捕まえるため、粘着性のあるウェーブ状のテープの仕掛けを父が天井から吊るしてくれました。私たちがどうやって生き延びたかって?ばい菌やバクテリアに免疫ができたのかもしれませんね。無事生き延びました。

学校に通うようになると、私たちの食生活は一変しました。私自身は学校で昼食をとることはありませんでしたが、一番下の弟はクラスメイトとランチタイムを過ごすことを望み、その結果、姉(妹)は弟のためにサンドイッチと果物、ココアを用意するようになりました。ニッケイ人にとって、おにぎりやテリヤキソーセージ、卵焼きを学校に持参するなんて論外でした。もし誰かがそういうものを持って行けば、他のニッケイの子供たちがきまりの悪い思いをしたことでしょう。なぜならそれは、「日本」の食べ物だったからです。ほとんどの日系カナダ人は、「日本的」なものを人前で見せることを恥じていました。私は母に、ゾウリやユカタ姿で買い物に行かないよう注意したことを覚えています。

2016年のグリーンウッド・コミッション・ガーデン

一つだけ例外がありました。労働者の日の運動会です。ニッケイ人の選手にとって、サンドイッチではエネルギーが湧きません。母親たちは、おにぎり、テリヤキソーセージ、卵焼き、海苔の“力料理”を差し入れなければなりませんでした。ニッケイの父兄は、学校から一番離れた場所にある大きな木を探し、その下に布を敷き、お弁当を並べました。子供たちはおにぎりを手で覆い、隠しながら食べました。「東洋的」なことはかっこ悪い時代でした。ほとんどの人が社会の主流派に受け入れられようと、懸命に努力していたのです。

今や皮肉なことです。現在西海岸ではすし屋の数がいくつかのファーストフードチェーンの店舗数を上回っています。オベントウ、イクラ、ウニ、オコノミヤキといった言葉は、もはや外国語ではありません。パウエル通りのお祭りに来る人の半数が、ユカタ姿やキモノを羽織ったヨーロッパ系の人々です。健康に気を配る白人は、コーヒーや紅茶より抹茶や各種緑茶を飲んでいます。私の友人は、自分はたくさん緑茶を飲んでいると熱弁を振るうので、「我々は何千年も飲んでる!」と言い返しました。時代は大きく変わりました。

今の日系カナダ人は、最高級レストランでステーキやロブスターを注文することもできます。一世は、お墓の中でよだれを垂らしているに違いありません。二世が、手作りの漬物とスパム、またはボローニャソーセージをほんの少し添えただけのご飯を食べていた時代とは雲泥の差です。ハンバーガーとフライドポテトに15~20ドル払うことは、四世には何でもないことです。

二世の中には、ニッケイ特有の伝統的な「日本」食を守る活動をしている人もいます。ニュー・デンバー・ピクルス(デンバーヅケ)、ブリティッシュコロンビア州カンバーランドのかん・ばー・らん・ど焼きそば、フキ、マツタケ、ノリ、キンピラ、テリヤキ味のカリントウ、テリヤキソーセージ。こういった食べ物は、ニッケイのほとんどがハパになった時、廃れてしまうのでしょうか?

ガルフ諸島ソルトスプリング島ガンジスの農場にはヨリエ・タサカの100歳以上になるフキが今でも育っている

 

© 2017 Chuck Tasaka

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このシリーズについて

あなたが食べているものは、どのようにあなた自身のアイデンティティを反映していますか?コミュニティが結束し、人々が一つになる上で、食はどのような役割を果たしているのでしょう?あなたの家族の中では、どのようなレシピが世代を越えて受け継がれていますか?「いただきます2!新・ニッケイ食文化を味わう」では、ニッケイ文化における食の役割を再度取り上げました。

このシリーズでは、ニマ会メンバーによる投票と編集委員による選考によってお気に入り作品を選ばせていただきました。その結果、全5作品が選ばれました。

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  編集委員によるお気に入り作品:

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執筆者について

チャック・タサカ氏は、イサブロウ・タサカさんとヨリエ・タサカさんの孫です。チャックのお父さんは19人兄弟の4番目で、チャックはブリティッシュコロンビア州ミッドウェーで生まれ、高校を卒業するまでグリーンウッドで育ちました。チャックはブリティッシュコロンビア大学で学び、1968年に卒業しました。2002年に退職し、日系人の歴史に興味を持つようになりました。この写真は、グリーンウッドのバウンダリー・クリーク・タイムス紙のアンドリュー・トリップ氏が撮影しました。

(2015年10月 更新)

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