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アマゾンのジャングルに観た日系社会

パリンチンスの日系人 ~その2

イノマタ学校の先生たちと

その1を読む >>

JICAでのブラジルにおける私の活動内容の一つに、西部アマゾン地域に点在する日本語教育機関への巡回出張というものがあった。アマゾナス州マナウス市を中心にアクレ州リオブランコ市、ロライマ州ボアビスタ市、ロンドニア州ポルトベーリョ市と各州の州都にある日系団体の手伝いをするというものだ。JICAの青年ボランティアが派遣されている場所では、一緒に授業を行ったり、日本文化を伝えるためのイベントを企画したりもした。パリンチンス市は州都ではないが、パリンチンス日伯協会という日系団体が存在している。

2010年、会長であるマリオ武富氏が中心となって日本語教育が始まった。市内の中心部に位置する「キムラ語学センター」での日本語クラス。市内の郊外にある「イノマタタダシ学校」(アベニウザ・トクタ校長)での幼児対象の日本語クラスがそれである。戦前から日本と深い関係で結ばれるこの街で長い間日本語教育が行われてこなかった影には歴史的にも深い事情がある。

このジャングルの小さな街の住民のルーツはほとんどがインディオで、その多くはパリンチンスを離れたことがないが、中にはデカセギとして日本で働いていたものもいる。1980年代以降、日本経済を支えるために多くの日系人が日本にやってきたが、この街の日系人も貪欲にそのチャンスを逃さないでいた。

街には日本人の名字や名前を模した学校なども多く、親日家も一見多そうだが、デカセギ帰りのものを除いては、日本語を話せるものはいないし、日本に対する知識もほとんどない。現在この街に住む純粋な日本人は、スーパーマーケット「カーザソニー」の主人である戸口久子さんのみになってしまった。

なぜこんな陸の孤島に日系人が存在するのか。街の中心にある金色の胸像「上塚司」とは誰なのか。そこには「コータクセイ」という大きなキーワードが見えてくる。コータクセイ=高拓生。日本高等拓殖学校卒業生のことである。 

1930年代、地球の反対側、アマゾンに産業を根付かせようとする一大プロジェクトがスタートした。アマゾンのジャングルを開拓しようという壮大な計画だ。日本国内の日本高等拓殖学校(創立時は国士舘高等拓殖学校)で農業などを一年間勉強した後、アマゾンの開拓リーダーとなるべく現地アマゾンに渡りジャングル開発にあたる。この学校の校長でありプロジェクトのリーダーが、当時衆議院議員だった上塚司氏である。

彼ら第一回の高拓生が初めてアマゾンにやってきたのが1931年(昭和6)6月のこと。ビラアマゾニアと呼ばれるパリンチンス郡の一角に作られたアマゾン産業研究所を中心に慣れない熱帯の気候の中、病気や習慣と闘いながら逞しく生きてきた。第1回47人の移住者を皮切りに、1938年までに高拓生とその家族ら401人が「アマゾニア産業研究所」経営の移住地に入植した。

彼らは肥沃なアマゾン川の湿地帯を利用してジュート麻の栽培を研究。大変な苦労の末、栽培化に成功した。ジュート麻はコーヒーや米袋として利用されていたが、当時はインドからの輸入に頼っていたため、高拓生が実現させた大量生産は、ブラジルの経済までも変えることになる。それまで輸入していたジュートを反対に外国へ輸出できるまでになったのだ。

その後、アマゾニア産業のこのプロジェクトは、第二次世界大戦においてブラジルが連合国側に加盟したため、ブラジル政府に没収されてしまう。ただ、この地に日本人がもたらしたは順調に発展し、アマゾンの人々の生活向上に大きく貢献したのである。戦争中没収された土地や財産は戻ることはなかった。そして、それは日本語についても同じで、戦争中に禁止された日本語教育がまた再開することになるまで何十年もの月日が過ぎてしまった。

「これが当時の写真だろ。こっちは彼らの本拠地ビラ・アマゾニアの地図だ。ほかにもまだまだ貴重な資料があるんだ。よし、今度は入植したときの古い映像を見てみよう。」

パリンチンス日伯協会マリオ会長は、我々JICAボランティアを前に事あるごとに、どれだけ高拓生が地元に強い影響を与えたか、どれだけその恩恵を受けているかなどを興奮して話したものだった。

 

© 2016 Toshimi Tsuruta

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このシリーズについて

筆者である鶴田俊美は多くの日系人が住むアマゾナス州マナウス市にボランティアとして派遣された。地球の反対側で日本人移民の方々が積極的に日本語教育を継承し、日本文化を守る姿を目にしてきた。このコラムでは3年間のブラジル生活で見た日系社会の姿をエピソードを交えて紹介していく。