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ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々

ロバート・“ボブ”・ウラガミさん

「博物館は自分には縁のない場所だった」というボブ・ウラガミさん。彼が、全米日系人博物館と初めて出会ったのは、開館記念展「Issei Pioneers: Hawai`i and the Mainland, 1885-1924(一世の開拓者たちーハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史1885-1924ー)』」の準備のため、1991年に展示品の依頼を受けたときだった。

長年、母が保管していた1916年付の日本語の手紙を提出し、翻訳してもらった。それは結婚前、父が母にあてた手紙で「ちまたで言われていることとは違い、アメリカには金のなる木はない」とあり、アメリカでの生活は大変だとつづっていた。

両親は和歌山県の那智勝浦浦神という小さな漁師町の出身で、写真結婚だった。父は典型的な一世の男性と違い、行動力があり、はっきり物を言うタイプだった。また、リーダーシップがあり、ボーイスカウトのコミッショナー登録もしていた。

アメリカのことわざに「自分が正しいと思ったら信念を通せ(If you think you are right, stick to your guns)」とあるが、ボブさんの父の場合、これに「間違ったらすぐに認める」(If you are wrong, be the first guy to apologize)が加わっていた。ボブさんには、今でもこの父のモットーが身についている。写真結婚では、アメリカでの生活を美化して将来の嫁にアプローチする男性もいたが、前述の手紙には正直なボブさんの父の人柄がよく表れている。

ボブさんの父は1902年にシアトルに到着した。まずフレスノで農作業に携わり、結婚。のちにロサンゼルスへ引っ越した。そこで両親は半年間、無報酬で働いてレストラン経営を学び、クレンショー地域にレストラン「トウゴウ・カフェ」を購入した。3年後、ようやく黒字になるという矢先に太平洋戦争が始まり、一家はコロラド州アマチ収容所へ行くことを余儀なくされた。

「若いときは両親の苦労に気がつかなかった。店も車もすべて売ってしまったのに」と当時を振り返る。都会育ちだったボブさんは、ブーツを持っていなかったが、収容所に行くことになり初めてブーツを買ってもらった。ブーツが必要な場所であるということ以外、どこへ行くのかは分からなかったが、今まで行ったことのない場所へ行けるとワクワクしたほどだ。収容所内では戦争ごっこをしたり、空き地でフットボールして遊び、ボーイスカウトの活動にも参加した。また、将来の妻となるルミさんと、9年生のクラスメートとして知り合った。

それから数十年後の1991年、すでに博物館でボランティアを始めていた妻のルミさんに誘われ、ボブさんも博物館を手伝うことにした。同年12月、「Issei Pioneers」の展示の準備の一環として、博物館がガイド育成のクラスをボブさんは受けた。これがボブさんの博物館でのボランティア活動の始まりとなった。しかしこの時はまだ、熱心に博物館でボランティアを続ける意思はそれほどなかったという。

1992年4月、「Issei Pioneers」の展示が始まり、ボブさんも足を運んだ。「写真結婚」をはじめ、自分が知らなかった一世の体験や時代背景を初めて学んだ。ボブさんは、自分の両親のような一世のためにも、「博物館でボランティアをし、彼らの苦労に報いなければ」と思った。

(写真提供:全米日系人博物館)

「Issei Pioneers」展の初日、館内を見回っていたボブさんは、ある男性スタッフと雑談をした。大工仕事ができる人を探しているという。自分はエンジニアで、展示に必要なパネルを作ることができると話したところ、その1週間後から、プロダクション部門をフルタイムのボランティアとして手伝うことになった。

ボブさんは、共に働いてきた博物館職員を「博物館の息子、娘」と呼ぶ。これらの子ども達は今ではシンガポール、ハワイ、サンパウロなどにもいる。毎年そうした子どもたちを訪ねている。「みんなで一緒に始め、一緒に学び、一緒に泣いて笑ってやり遂げてきました」とボブさんは言う。

2013年に他界した妻のルミさんは、とても手先が器用な人だった。2人の子どもたちが4-5歳のとき、近所の子どもを集めて折り紙や絞り染めなど教えた。ある年の独立記念日には、自宅周辺の道路を閉鎖して、子どもたちによる三輪車パレードを企画実行した。

ルミさんもボブさんと同じ初期のボラティアで、彼女は1988年にすでにボランティアとして活動をしていた。折り紙教室はルミさんが始めたという。ルミさんは博物館に毎日通い、実行力を発揮して、1年間で2000時間も奉仕していた。「彼女は特別な女性、私はラッキーだった」とボブさんは話す。

妻のルミさんと (写真提供:ボブ・ウラガミ)

 

* 本稿は、 日刊サンの金丸智美氏がインタビューをし、そのインタビューを元に、ニットータイヤが出資し、羅府新報が発行した『Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum (ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々)』へ大西良子氏が執筆したものです。また、ディスカバーニッケイへの掲載にあたり、オリジナルの原稿を編集して転載させていただきました。

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© 2015 The Rafu Shimpo

Amache Bob Uragami janm Japanese American National Museum nisei Rumi Uragami volunteer

このシリーズについて

このシリーズでは、ニットータイヤからの資金提供を受け『羅府新報』が出版した冊子「ボランティアの声:全米日系人博物館を支える人々 (Voices of the Volunteers: The Building Blocks of the Japanese American National Museum)」から、全米日系人博物館ボランティアの体験談をご紹介します。

数年前、ニット―タイヤはロサンゼルスの邦字新聞『日刊サン』と共同で全米日系人博物館(JANM)のボランティアをインタビューしました。2014年末、これらのインタビューを小冊子にまとめるべく、ニットータイヤから私たち『羅府新報』に声がかかり、私たちは喜んで引き受けることにしました。JANMインターン経験者の私は、ボランティアの重要性や彼らがいかに献身的に活動しているか、そしてその存在がどれほど日系人の歴史に人間性を与えているか、実感していました。

冊子の編集にあたり、私は体験談ひとつひとつを何度も読み返しました。それは夢に出てくるほどでした。彼らの体験談に夢中になるのは私だけではありません。読んだ人は皆彼らの体験にひきこまれ、その魅力に取りつかれました。これが体験者本人の生の声を聞く醍醐味です。JANMのガイドツアーに参加する来館者が、ボランティアガイドに一気に親近感を抱く感覚と似ています。ボランティアへの親近感がJANMの常設展『コモン・グラウンド』を生き生きとさせるのです。30年間、ボランティアが存在することで日系史は顔の見える歴史であり続けました。その間ボランティアはずっとコミュニティの物語を支えてきました。次は私たちが彼らの物語を支える番です。

以下の皆様の協力を得て、ミア・ナカジ・モニエが編集しました。ご協力いただいた皆様には、ここに厚く御礼申し上げます。(編集者 - クリス・コマイ;日本語編者 - マキ・ヒラノ、タカシ・イシハラ、大西良子;ボランティアリエゾン - リチャード・ムラカミ;インタビュー - 金丸智美 [日刊サン]、アリス・ハマ [日刊サン]、ミア・ナカジ・モニエ)

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